夏の思い出は人それぞれだと思うが、自分自身のことを振り返ると「急に独立することになった」9年前の夏を振り返ってしまう。
確かお盆明け、事務所に行くと突然社長から「9月末でここの事務所を閉じるから、親会社に戻るか独立するか決めなさい」といわれたのだ。
これぞ青天の霹靂というべきか、あまりにも急な展開で驚いた。
「あと1カ月しかないじゃん・・・」
困惑しなかったといえばうそになる。
いや、困惑をとおりこして混乱したというのが正直なところかもしれない。
だからこそ、強烈な記憶としていまでも脳裏に刻まれているんだと思う。
その後、どういう経緯だかは忘れてしまったが、会社の顧問が面談することととなった。
顧問の方は自動車業界に携わる人であれば誰でも知っているであろう、Y社の副社長まで勤め上げたキレ者という印象があった。
単に副社長まで出世したからという話ではない。
洞察力に優れた方という印象が強かったのだ。
で、キレ者の顧問と面接することになった。
事務所を閉じることになった経緯をひととおり聞いたあと、「親会社に戻るか独立するか」のファイナルアンサーを求められた。
そのときなぜか「独立します」と答えてしまったのだ。
なぜそう答えたのか自分でも分からない。
せっかくの機会だからやってみようと思ってしまったのだ。
当時は独身で、誰にも迷惑を掛けるわけではないことも大きな理由だった。
しかし、小さな事務所だったので、9月末までにリース品を返却したり、不要な什器を処分してもらう手配など・・・。
社長と手分けをしてでもやることは山のようにあった。
そんなことをしているうちに9月末を迎えてしまったのである。
一応、開業届を出し、銀行口座を開設したりはしたが独立したときに「今後ともよろしくお願い申し上げます」的なハガキやメールでの案内や、挨拶回りなども一切やっていなかった。
いま思えばどんだけ呑気だったのだろう。
そして9月30日。
人が4,5人も入れば満杯になる狭い事務所も、撤収が完了したがらんとした状態であれば広く見えるから不思議なものだ。
この日で最後となる事務所の電気を消し、扉の鍵を閉めた瞬間から「自由の身」となった。
明日からはここには来なくていい。
何時に寝ようが、何時に起きようが自由だ。
とりあえず、電車に揺られていつものように帰宅した。
だいぶ自宅まで近づいてきたとき、昔の職場の同僚がこちらの事情を察して「いまから飲まない?」とメールをくれた。
ここからだとずいぶん引き返すことになるが、明日は早起きをしなくていいし、何だかこのまま帰宅しても・・・という気分だったので、上りの電車に飛び乗った。
で、ここぞとばかりに飲んだんである。
それも終電近くまで。
明日からは早起きして通勤電車に揺られなくていいからではない。
少しでもこれから先の不安を紛らわせたかったんだと思う。
泥酔状態で帰宅して、それでもなんとかシャワーを浴びて横になったんだと思う。
翌朝、朝ドラを観ながら「これからどうしよう・・・」と不安でならなかった。
なにしろ、収入の宛てがほとんどないのだ。
フリーランスといえば聞こえはいいが、仕事がなければニートと紙一重だ。
今日からは「食い扶持は自分で見つけてこなければならない」という、重い現実がのし掛かってきた。
それからしばらくは「平日に家にいる」ことが慣れなかった。
仕事のメールも急に届かなくなった。
それはつまり、収入源となる仕事がないことを意味した。
で、必死になって仕事を探した。
が、大してキャリアのない人間がいきなり連絡をしてもなしのつぶて。
これはまずい。
幸い、会社員時代に担当していた仕事を社長がこちらに振り分けてくれたこと、別の職場の元上司が独立後初のなる仕事の紹介をあっせんしてくれたことで、何とか0スタートは回避できた。
とはいえ、毎月の定期案件ではなかったので、売り上げが0円の月もあった。
いま振り返っても本当にあのときは辛かった。
「黙っていても毎月確実に決まった額の給与が振り込まれる」ありがたみをこのとき改めて痛感したように思う。
2007年にこの世を去った植木等が「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と歌っていたが、生活が保障される安心感がそのまま精神の安定につながることは紛れもない事実だと知った。
あれから9年。
おかげさまでいまでは休む暇もないほどお仕事をいただけるようになった。
ときどき、せめて半日くらいはのんびりしたいなぁと思うことはあるが、予定がスカスカの日々より、締め切りに追われて考えるヒマもないほどの方が精神的には落ち着く。
この原稿にしたって、朝4時に起きて、これから取材というタイミングで書いている。
ボーッとするくらいなら仕事をしていた方が精神的にも落ち着く。
9年前のあのとき、親会社に転籍していれば生活は安定したはずだ。
土日もゆっくり過ごせたに違いない。
でも、これでよかったんじゃないかとようやく思えるようになってきた。
その理由として「他の人には任せられない案件なので・・・」とご指名いただける機会が増えてきたからだ。
会社員時代に「君の代わりはいくらでもいる」といわれて悔しい思いをした身からすればウソみたいであり、実にありがたい話しだ。
近頃の唯一の息抜き。
それは子どもたちと遊ぶ時間と、2週間に1度、わずか1時間程度だが愛車をドライブすることだろうか。
[画像/Adobe Stock ライター/松村透]