「車売却ってそもそもどんな流れなのか」「車の相続について相談したい」など車売却をご検討の際に出てくる悩みに無料でお答えいたします!
【相談例】
● 車売却のそもそもの流れが分からない
● どういった売り方が最適か相談したい
● 相続で車を売りたいけど売り方が分からない
● 二重査定や減額について知りたい
など
旧車オーナーにとって、クルマへの愛情が深くなれば深くなるほど、自身の愛車のメンテナンスに興味を持つことはないであろうか? 詳しい知識はなくとも、できる部分は自身の手でやってみたいと考えているオーナーは決して少なくないと思う。 クルマのメンテナンスを行うためには当然工具が必要なる。 クルマのみならず、機械いじりなど一度も行ったことがないオーナーにとっては、数ある工具の中からどれを選べば良いのか、まったくもって見当もつかないだろう。 今回は、ポンコツ愛好家の私・クマダが、かれこれ20余年の経験を持って、メンテナンスデビューしたいビギナー(初心者)に向けて、なるべく簡単にアドバイスをしたいと思う。 ▲ 雑然とした筆者のツールチェストの内部。安価なショボ工(しょぼい工具)から高額なスナップ・オンまで幅広いラインアップ!?※私クマダはYouTubeでポンコツ再生動画を公開しております。ぜひ動画もご覧ください。チャンネル登録お待ちしております! https://t.co/jshezU8Be0) ■ホームセンターで販売されている工具が、必ずしもクルマの整備に向いているとは限らない ▲すでに購入から20数年が経過したPBボーマンのドライバー。 良い工具は長持ちするうえ、使い込めば使い込むほど愛着がわき、やがて一生モノとなる。 ご存じの通り、昨今DIYがブームとなっている。 ホームセンターの工具コーナーの品揃えも本格的なものとなりつつあるようだ もはや、プロ志向の品揃えとなっているといっても過言ではないことだろう。 おそらく多くのビギナーが、自身で最初に手にする工具をこのホームセンターで検討されると思うが、購入については少し踏みとどまっていただきたい。 それはなぜか? 私クマダは経験上、ホームセンターで販売されている工具が、必ずしもクルマの整備に向いているとは限らないと考えているからだ。 そもそもホームセンターで販売されている工具は、自動車整備のみならず、建築や工業機械など、その他の用途も含めた目的で製造されたものが多い。 これらはたいがいにして肉厚で強固、かつ重量があるため、クルマのエンジンルーム内など、細かく入り組んだ部分での作業がしづらかったりする。 また、くれぐれも多数の工具が一つのケースに入った一見お得そうなツールセットなるものにはくれぐれも注意してほしい。 安価品は全体的に繊細さに欠ける印象のものが多いが、印象のみならず、実際に精度も悪かったりする。 そもそもしっかりと対象物にかみ合わないのだ。 例えば、錆びてただでさえ緩みづらくなっている旧車のボルトやナットに大きなトルクをかけて使用した場合、いとも簡単に頭をなめてしまう可能性がある。 これは作業をする者の腕がいいとか悪いとかの問題ではない。 場合によっては、大きなトルクをかけて使用した際に突然破損し、ケガの原因になることすらあるのだ(筆者は経験済み)。 ■クルマの工具はやはり専門店がおススメ!工具を実際に手に取って選ぼう ▲ 新卒でディーラーの整備士になったが、支給工具は最低限のもので、当然満足のいくものではなかった。先輩に借りるわけにもいかないので、毎月毎月少しずつ工具を買い足していった。これらは20年経った今もしっかり使えている。 それでは、いったいどこで工具を購入すればよいのか? それはやはり、自動車整備用の工具を専門に取り扱った店舗一択となるであろう。 ネットではなく店舗で購入するメリットは、実際に工具を手に取り感触を確かめられる点である。 また忘れてはいけないのが、工具店での経験を積んだスタッフからの直接のアドバイスはたいへん貴重だ。 こういったリアルな体験はネットショッピングではまず不可能といっていいだろう。 ぜひ店舗に直接足を運んで工具を自分自身で選んでほしい。 例を挙げると、早回しに必要なラチェットハンドルひとつとっても種類はさまざまだ。 ハンドルの太さや長さ、そして重さ、ラチェットの歯数や空転時の軽さ、ソケットツールのクイックリリースボタンの有無や押しやすさ・・・。 さらにはクロームの仕上げ方法による握ったときの滑り具合などなど、チェックポイントは多数ある。 そして何よりも、高価なブランド工具と、同機能の安価な工具との違いもここで確かめるといいかもしれない。 なお、最初から数多くの工具を購入する必要はない。 まずはじめに揃えておきたい工具の具体的な内容は次の項で述べるが、使用頻度の高い基本的な工具はしっかりとしたブランド・品質のもので購入したい。 あとは、追々、自身の作業内容やレベルに応じて買い足しすることをおススメする。 必要性を感じてから工具を買い足すことで、無駄なく工具を揃えられるのと同時に、いま手元にある工具の使い方に工夫を凝らすことで、メンテナンスの腕の向上にもつながることであろう。 工具があることにありがたみを感じる瞬間でもある。 ■ビギナーが最初に選ぶべき基本的な工具を、具体的に挙げてみる ▲ 文中に挙げた最低限の基本的な工具。これらを車載工具として携行できるとさらに頼もしい。 筆者が、メンテナンスのビギナーがとりあえず最初に揃えると良いと思う工具は以下の通りだ。 ●コンビネーションレンチ(片側がスパナ、もう片側がメガネレンチになった工具)●3/8sqソケットレンチとラチェットハンドル(8/10/12/13/14/17/19mm)●欲をいえば、1/4sqのソケットレンチとラチェットハンドル(8/10/12/13mm)●エクステンションバー(3/8sq・1/4sqともに長さで2~3種類)●プラスドライバー(1/2/3号)●マイナスドライバー(3/4/5号)●長めのヘックス(六角)棒レンチ(片側がボール型になっているものが良い)●ノズルプライヤー(ラジオペンチ)●カッティングプライヤー(ニッパー)●ウォーターポンププライヤー●1/2sq スピンナーハンドル などなど・・・ とはいえ、ビギナーにとってこれらを最初からそれなりのブランドの工具で購入するとなると、予算のことなど、とても勇気が必要になるだろう。 ただ安心してほしい。 ここ十数年で状況はとても良い方向に好転していからだ。 旧来の工具専門店というと、敷居が高く、その道のプロでないと入りづらそうな雰囲気の店が多かった。 しかし昨今では、プロのみならず、個人のユーザー向けに全国展開をしている工具店が複数存在している。 アストロプロダクツや、ストレート、ファクトリーギアなどである。 インターネットで検索すれば、きっとあなたの身近な場所に店舗が見つかるはずだ。 とりあえずこういった工具店では、ショップのオリジナルブランドではあるが、安価でありながらも、品質的にはなんとか及第点となる工具セットが販売されている。 筆者の本音は、それなりに名の通ったメーカーの工具で揃えていただきたいが、セットの内容を吟味したうえで、これらを購入するのも選択肢のひとつだと思う。 これらの工具セットは、コンパクトで仕上げの良いツールボックスに入って販売されていることが多いので、後々ステップアップした後も車載工具として使用することもできる。 ■スナップ・オンだけが工具ではない。さまざまな工具を手に取り吟味して選ぼう ▲「安くて良いもの」は存在しない。しかし、「安い割にはまぁまぁ良いもの」は間違いなく存在する。ただ、それを見極めるのが難しい・・・。 熟練したメカニックの中には、スナップ・オンをはじめとするブランド工具以外は認めないといった風潮があることも事実だ。 彼らはボルト一本を締める行為一つに強い責任感を持ち、情熱を燃やしている。 先述の通り、安価な工具は精度が悪く、ボルトやナットの角に傷を入れることが多い。 当然の意見であろう。 ただ「ブランド工具」といっても、自動車整備の世界には様々な工具メーカーが存在し、各々個性的な特徴を持ち合わせている。 例えば、高額なブランド工具の代表格、米国メーカーのスナップ・オンのレンチはミラーツールとよばれるクロームメッキ仕上げが特徴で、その美しい外観から使用せずに収集するコレクターが存在する。 しかし反対に欧州では手に持っても滑りにくいザラザラとした梨地仕上げのレンチが好まれる。 ハゼットや、スタビレーの柔軟にしなるレンチがこれに該当する。 PBボーマンのドライバーは、オイルまみれの手で握っても不思議とすべらないグリップをもつ。 国産メーカーでは、定番中の定番であるKTC(京都機械工具)、とても精度の高いソケットツールに定評があるコーケン(山下工業研究所)が挙げられる。 また、機械工具の武骨なイメージだったが、ここ数年で自動車整備向けの工具に力を入れてきたTONE(筆者はラチェットギアレンチや、ストレートメガネレンチを愛用)などなど・・・。 いくつか工具メーカーを挙げたが、これらは、どこのOEMで生産されたか分からない各工具専門店のオリジナルブランド品に比べれば、倍くらいの値段がする。 しかし、これらの製品は、スナップ・オンに比べればとてもリーズナブルだ。 仕様の用途や頻度も含め検討するとよい。 なお、ちゃんとした工具は壊れにくい。 それこそ、良い工具を選べば一生モノとなる。 しかし、工具の世界には「安くて良いもの」は存在しない。 やはり「良いものは高い」のだ。 ただ、「安い割にはまぁまぁ良いもの」は間違いなく存在する。 前述したとおり、工具は手に取ってよく吟味したうえで選んでいただきたい。 納得のいく工具選びを繰り返せば、あなたもいつかエキスパートになれることだろう。 今回は、初めての工具選びについてかんたんに執筆させていただいたが、機会があれば、旧車を維持するにあたって、より実践的な工具の選択方法やケミカルについても案内していこうと思う。 次回を期待して待っていてほしい。 [YouTube]BEARMAN's チャンネルhttps://www.youtube.com/channel/UCTSqWZgEnLSfT8Lvl923p1g [ライター・撮影/クマダトシロー]
新生Z32専門店は、しだいに旧車屋へ! [前回までのあらずじ]今から25年前の1997年、平成9年に中古車販売店の営業の仕事をスタートした筆者。 雇われ店長で、70スープラ専門店からZ32専門店へ転換。 紆余曲折を経て、有名店にまで昇りつめたものの、燃え尽き症候群に陥る。 ノルマや数字に追われる仕事からも逃れたいと思っていたところ、まさかの会社消失。 10年間走り続けてきた道がいきなりなくなった。 今までのお客様のためにも独立しかないと決意し、新たな道を作るべく「新生Z32専門店」を立ち上げることに。 たくさんの方に応援、ご協力いただいたご恩は一生忘れないだろう。 ついて来てくれたスタッフにも感謝です。 ■前の会社の延長でいけるはずもなく、前途多難のスタートに 前の会社が消失してから間を開けてはダメだと思い、急遽土地を借りて、1ヶ月後の2007年1月に新店舗をスタートさせました。 ショップ名は、「Zが一番!」という思いを込めて「Zone」(ゼットワン)にしました。 何とかお店らしい雰囲気になり、順調なスタートが切れるはずが・・・。 前の会社が負債を残して辞めてしまったので、そこにいた私は周りからそっぽを向かれ、四面楚歌状態に陥ったのです。 誰からも取引きしてもらえず、ローンも取り扱えない、部品の仕入れもできない、オリジナルパーツも作れない・・・。 いきなり大きな壁にぶち当たりましたが、悩んでいる時間はありません。 お取引きしていただきたい会社に、土下座して回りました。 輪をかけて、この頃からスポーツカーの人気に陰りが出はじめてきたので、先行きが不安な前途多難なスタートとなったのです。 もちろんZ32一車種ではやっていけるわけがなく、Z33も扱っていましたし、それ以降のフェアレディZも扱う予定でした。 その証拠が、当時の看板です。「FAIRLADY Z PRO SHOP」 と、Z32だけに拘っていません。 ■お店のスタイルを変化させるのが怖かった 当時、筆者は前のお店のスタイルを引き継いではじめるのがベストだと思っていました。 中古車販売ありきで、車検やメンテナンスは安く。 デモカーは前の会社の社長に退職金替わりにいただいたので、この点はラッキーでした。 今までのお客様に安心感を与えるため、前のお店と変わらない雰囲気を作ることが大事だと思い込んでいたのです。 ところが「新生Z32専門店」と謳ったものの、何の進化もなく、新鮮味もなく、惰性ではじめたような旧態依然としたお店です。 新たなお客様から見たとき、まったく魅力はなかったでしょう。 しかも、スポーツカーはますます人気が落ちて、売却の相談に溢れました。 整備は、タイミングベルト交換以外、お金をかけてメンテナンスする方も少なったかなと思います。 その結果、クルマの程度もみるみる落ちていったのです。 『Z32の価値を上げるのが専門店の役目ではないか!』 このままで良いわけはない! 頭では理解していても、お店のスタイルを変えることに恐怖を覚えました。 ■このままではZ32がなくなる。自分が何とかしなければ! そうこうしているうちに「純正部品の製廃」が出てきました。 メーカーが古いクルマの部品をなくしてきたのです。 このとき、Z32が旧車になってきたことを実感しました。 新車エコカー補助金で下取りに入れたクルマは廃車され、海外にも流されはじめます。 「このままでは、Z32が国内からなくなってしまう・・・」という危機感を覚えました。 すぐにでも何とかしなければ!! 「Z32を国内で遺すために必要なことは、オーナー様に大事に乗ってもらうことだ!」 こうして文字にすると簡単に映りますが、実際には奥が深いです。 そこで、下記の取り組みをはじめたのです。 ・Z33~をやめてZ32に全集中、一球入魂です。私たちの気持ちがぶれないようにする・クルマを良くするために、オーナー様のやりたいことに合わせた仕事ではなく、私たちがやりたい仕事をする・クルマを短命するチューニングや改造は行わない・内外装の見直しよりも、機関系の見直しを優先して勧める・まだ旧車だと思っていないオーナー様の意識改革を行う・故障してからの修理ではなく、部品があるうちに予防整備を勧める・純正部品をメーカーにオーダーし続け、製廃阻止活動を励行する・機能単位のリフレッシュメニューを勧めて、安心して長く乗っていけるクルマを増やす・大事に乗っていただける方を見極めてクルマを販売する。販売条件は、遠くても当店でメンテナンスしていただくこと 上記を全スタッフが志を一つにして全力で取り組むことで、仕事への取り組みや、やり方が変わってきました ■Z32を後世に遺すために、旧車屋さんに変身! 約10年前から少しずつお店のスタイルが変わってきました。 私たちのポリシーやスタンスに賛同してくださる方が増えて、全国から車輛のご購入、リフレッシュやレストアのご相談をいただくようになりました。 Z32を大事に長く乗りたい方が、潜在的にたくさんいらっしゃったのです。 すぐに整備環境を拡充し、できる限りことを自社で対応できるようにしました。 部品庫に部品をストックしたり、ないものを作ったり、綺麗に仕上がる方法を考えたりと。 外注先も意思疎通できる一流のプロフェッショナルに変えていきました。 こうして、やっと理想の専門店になったわけですが、行きついた先は「旧車屋」でした。 継続は力なりです。 普通の中古車屋さんが、いつの間にか旧車屋さんになったケースは多いと思いますが、私たちもその一社といえます。 その後、雑誌の取材を受けたり、旧車イベントにも出展するようになり、しだいに「旧車屋」が定着してきました。 今は、名車Z32を後世に遺すことが私共の使命と思い、人生をかけて取り組んでおります。 いつまでやっていけるかを考えず「行きつくところまで進んでいく」覚悟で日々、業務に邁進しています。 (これまでのエピソード)お調子者営業マンだった私が、Z32専門店を立ち上げるまでhttps://www.qsha-oh.com/historia/article/z32-omura-vol1/ お調子者営業マンだった私が、Z32専門店を立ち上げるまで[エピソード2]https://www.qsha-oh.com/historia/article/z32-omura-vol2/ [ライター・撮影/小村英樹(Zone代表)]
■番外編 ~アルミ弁当箱図鑑 厳選50 出版への道~ どうも!「日本アルミ弁当箱協会」会長のマツド・デラックスでございます。 「旧車王ヒストリア」連載ですが、今回は番外編をお送りいたします。 「アルミ弁当箱図鑑 厳選50 ーマニア編ー 出版への道」を語らせていただきます! ■「アルミ弁当箱図鑑」という発想 まず、この「アルミ弁当箱図鑑 厳選50 ーマニア編ー」を作りたいと思ったきっかけからお話ししていきます。 そこは遡ること3年前、今回出版させていただく編集部の編集長さまとの久しぶりの再会からはじまりました。 以前はファッション系(男性)の雑誌を作られていて、そこで記事を書かせていただいていたのですが、私が車系のライターに方向転換し、疎遠に・・・。 久しぶりにお会いすると、本の出版を数多く手がけており「どうだい?本作るか?」という軽い問いかけに、瞬時に「図鑑を作りたいです!アルミ弁当箱の!」と答えたのです。 ■しかし簡単には・・・・ ところが、ここから発売まで3年という年月を費やすことに。 簡単にはいかなかったのです。 それはなぜか?それは私が「オタク」寄りの出版物を出したかったからです。 しかし、ヴァンタスさんの出版物は正統派のものが多く、私の構想と大きくかけ離れてしまいました。 私は、出版は諦め、コレクターとしてアルミ弁当箱を極めたいと収集に全力を尽くしていくと、少しずつ展示のチャンスをいただき、ついにはトークショーを開催するまでになったのです! そこで取材やメディアへの露出のおかげで、再度出版のチャンスをいただくことになったのです。 この期間が3年でした。 ■苦労は続くよどこまでも! しかしこれですべてOKとはならないのです。 アルミ弁当箱会社へアルミ弁当箱の使用許諾をとりたかったからです。 そこで「日本軽金属協会」さまに問い合わせ、私の所有しているアルミ弁当箱会社を調べていただきました。 なんと、その結果・・・99%のアルミ弁当会社が「吸収合併」「部門消滅」「倒産」「廃業」「不明」という結果でした。 そして、1社だけ現存していたアルミ弁当箱会社「大一アルミニウム」さんにたどり着いたのです。 70年間アルミ弁当箱を作り続けている会社に訪問させていただき、アルミ弁当箱の衰退期のお話から当時の繁忙期のエピソードまで教えていただくことができました。 ■そしてついに出版!まさかのYAHOO!のトップ記事に! そんな四苦八苦の道のりを経て「アルミ弁当箱図鑑 厳選50 ーマニア編ー」はできあがったのです! そして取材していただいた「集英社オンライン」さまの記事が掲載されると奇跡が起きました。 まさかのYAHOO!のトップ記事で紹介されたのです。 なんとコメント数が600近くも! なおかつ、コメントは温かいものが大多数を占めていました。 感動しました。 6年間という長い道のりではありましたが、ここまでこられたのは、私に愛想を尽かさず応援し続けていただいた皆様のお陰です。 病気などもあり、諦めかけていたこともアルミ弁当箱への「愛情」を持ち続けることでここまでこれたのだと思っております。 最後の目標としてはアルミ弁当箱ミュージアム設立まで走り続けたいと思っております! 改めて皆様ありがとうございます!そして9月17日発売の「アルミ弁当箱図鑑」をよろしくお願いいたします! オールカラーの100ページに様々なジャンルのアルミ弁当箱を詰め込んでおります。是非、読んでいただければありがたいです!よろしくお願いいたします。 ◎アルミ弁当箱図鑑 厳選50 ーマニア編ー マツドデラックスコレクション (ヴァンタス) | マツド・デラックス https://www.amazon.co.jp/dp/4907061471 ■今回の斜めから見た旧車~「日産スカイライン(1968年)」 さてまたまたやって来ましたこのコーナーは、本当に無理矢理アルミ弁当箱からの「斜め」から見た旧車コーナーです。 今回は「スカイライン」です。 ではなぜ今回「スカイライン」なのか? それには今回のアルミ弁当箱図鑑のなかで私が語っていた「愛情」が関係しています。 お察しのとおり今回は「キャッチコピー」からの旧車です。 そう私のアルミ弁当箱への「愛」と「愛のスカイライン」をつなげてみました。 イメージ的には「ケンメリ」の方が「愛のスカイライン」のイメージが強い方も多いかもしれません。 実は意外にも(ファンは知ってます!と突っ込まれるかも)「ハコスカ」からのキャッチコピーだったのですね! スカイラインに限らず自分の車は「愛車」。 そして、コレクション等も「愛」があってのこと。 これからもアルミ弁当箱にも旧車にも「ゆる~く」愛情を注ぎながら、旧車を紹介していきますのでよろしくお願いいたします。 [画像・日産/撮影&ライター・マツド・デラックス(山本圭亮)]
■第4回 ~アルミ弁当箱と旧車の意外な関係~ どうも!「日本アルミ弁当箱協会」会長のマツド・デラックスでございます。 今回からは「アルミ弁当箱と旧車の意外な関係」を語っていきたいと思います。 ■アルミ弁当箱全盛期はクルマ社会の全盛期でもあった このタイトル。旧車王の記事としては逆なんでしょうね(編集部注:そのままいきます)。 「クルマ社会の全盛期は、アルミ弁当箱にとっても全盛期」なんでしょう。 しかし、アルミ弁当箱協会の会長としてはあえて逆から行きたいと思います。 ■魔法使いサリー 「え?」と思う方と「なるほど!」と思う方、両極端に分れる作品がこの「魔法使いサリー」です。 1966年(昭和41年)といえば、自動車産業が活発化し、各メーカーが名車と呼ばれる「大衆車」を世に送り込む世代でもありました。 そんな中放映されていた魔法使いサリーも例外ではなく、自動車産業の影響を受けていたのです。 ■実はタイトル変更はあのクルマとは無関係? まず、よく話題になるのは「魔法使いサリー」のタイトルです。 この漫画の最初のタイトルは「魔法使いサニー」だったのは有名な話です。 そしてタイトル変更の理由として流れていた都市伝説は「日産が許可をしなかった」でした。 しかし、どうもこれは間違いで、許可されなかったのは他の会社で商品登録名があったからだそうです。 たしか家電メーカーだったはずで、日産も車種名としてその会社に使用許可をもらっていたそうです。 それが日産の大衆車「サニー」だった、というわけです。 現在車種名として残っていないのも、使用許可年数が過ぎたからという説もあるとのことです。 ■クルマの話題が多かったサリーちゃん そんなことが話題になったかならなかったのかは定かではありませんが、「魔法使いサリー」は「クルマ」にまつわる話題が多かったような気がします。 よっちゃんのお父さんの仕事は個人タクシーの運転者だったり「交通戦争(もう死語かもしれません)」を題材に物語があったり・・・。 極めつけのエピソードとして、主人公のサリーちゃんと弟のカブが「ラリー」に参加するという、実にマニアックな展開のエピソードまであったほどです。 そして、このラリーのエピソードで2人が乗るクルマを魔法で選ぶのですが、サリーちゃんは「私と同じ名前のサリーにするわ」といい、カブは対抗して「カブリカ」を選びます。 もちろん、日産の「サニー」VS トヨタの「パブリカ」というわけ訳です。 当時の制作スタッフも粋なことをするものですね。 ・・・といった具合に、アルミ弁当箱に描かれている作品には意外とクルマに関係する作品があるんです。 というわけで、今回の「斜めから見た旧車たち」は「サニー」と「パブリカ」にスポットを当ててみました! まったく脈絡のないコラムではありますが、旧車王ヒストリアだけでなく「マツドデラックスコレクション アルミ弁当箱図鑑」もよろしくお願いいたします。 ●アルミ弁当箱図鑑 厳選50 ーマニア編ー マツドデラックスコレクション (ヴァンタス) | マツド・デラックス https://www.amazon.co.jp/dp/4907061471 ●日本アルミ弁当箱協会会長「アルミ弁当箱図鑑 厳選50 」出版への道https://www.qsha-oh.com/historia/article/matsudo-bangai-1/ またアルミ弁当箱を並べて欲しい等とご要望のある方も是非お声をかけてください。 ●日本アルミ弁当箱協会ホームページhttps://kyokai.fans.ne.jp/arumibenntou/ ●Twitterhttps://twitter.com/keisuke38922 次回はイベントで10月30日に開催される「ISUZUオーナー集会」に参加、展示予定です。 こちらもぜひよろしくお願いいたします! [撮影/ライター・マツド・デラックス(山本圭亮)]
■エピソード1:なんとなく始まった旧車複数所有生活 ボクはバランス至上主義の天秤座生まれ。 当然、義務教育とオプション教育の年数バランスにもこだわり(?)、6-3-3-6(最後の6は、1年の休学と留年を含む)という学生生活を送っている。 その最後の年となった1978年、学生時代最後のクルマとして、ふと目が合ってしまった1964年式のボルボ1800Sを購入したのだ。 当時は旧車という概念がなかったけど、「品5」ナンバーだったし、今なら普通に2年車検だけど、当時は11年以上経過すると1年車検だから明らかに旧い。 でもね、カッコイイんだこれが!! 気に入ってブイブイいわせていたけど、流石に北国のクルマ、冬は良いのだろうが、夏の室内は我慢大会の決勝レベル。 そこで借金して、マイカー初のクーラーを付けてもらうことになった。 いやぁ涼しい! こちらの画像はスウェーデン工場生産になって車名が「P1800」から「1800S」になった直後のモデルだ。 翌年春、卒業して某国産車ディーラーに勤めたのだが、ボルボは車検が近いし、エンジンやミッションのマウント劣化が激しく修理費用がかかる。 そんなとき、車検が1年ほど残ってるけど、いらなくなったから乗ってよ、ってなわけでホンダLN360がやってきた。たしか70年式あたりだから約9年落ち。 今の感覚では、まだまだ旧車というにはほど遠い存在だったけど、当時は、10年も経ったらポンコツのオンパレードという時代だったから、一般的な視線では旧いクルマに見えたはずだ。 まぁ、クルマを購入、維持するために必死になってバイトをしていた若造のボクは、あっという間に複数所有が成立して大喜び。 まるでおぼっちゃまになったような気分を味わったものだ。 こちらの画像はLN360のカタログの一部。 都内を走る分には不満のないパワーで、当時一緒に暮らしていたワンコとのドライブを楽しんだ記憶がある。 ただ第一次複数所有時代は、約半年という短期間のうちに終了した。 初任給の段階ではボルボの修理と車検は難しく売却することになったからだ。 LN360も、通勤用にコロナHT2000EFI-SLを入手した際に手放すことになった。 短い時間だったが、目的に応じてクルマを使い分ける喜びや楽しさを実体験できたことは、とても幸運だったと思う。 ■エピソード2:複数所有は楽しさ倍増、ただ…… その後も、一時的に複数所有することもあったサラリーマン時代だが、2台以上が旧車といえるパターンは皆無だった。 多くの場合、複数所有の基本は、好きなクルマと普段使う実用車って構成だから、旧車が好きで所有するなら、当然2台目は普通に快適な現代のクルマとなる。 その常識的複数所有パターンが一気に崩れたのは、独立2年目となる1989年のこと。 当時愛用していた新車で買った趣味兼実用のホンダCR-X Siに加え、今も所有する69年式フェアレディSRLを手に入れたのだ。 そのキッカケは、新車購入のCR-X Siの走行距離である。 起業し、通勤、営業、取材、そしてストレス解消の峠走りと大活躍してくれたのだから、 走行距離がガンガン伸びるのは当然だけど、2年弱で10万キロも走っていたのだ。 そろそろ買い替えを…と勧めてきた営業マンに、過走行だから査定の減点がナンチャラと言われてショックを受け、複数所有で走行距離の分散が必要と考えたわけだ。 冒頭の画像は69年式フェアレディSRL311。 89年に日本に帰ってきた帰国子女で、国内最初のオーナーがボク。 今も溺愛している最愛の個体だ。 まぁ、ここまでは自然な流れだったけど、その直後、事態は急変。 付き合いのあったアメ車屋さんから79年式ポンティアックファイアーバードトランザムが、自動車趣味の仲間から70年式スバル1300Gスポーツが同時期に転がり込んできたから、大きな変化に対応するため走り回った記憶がある。 さらにその半年後には、73年型1303Sと76年型1200LSと、2台のVWビートルまで加わり、一気にひとりと6台の大家族となってしまったわけだ。 予期せぬ出会いから無計画かつ強引な増車……ある意味ボクらしいできごとだった。 もちろん、好きなクルマがいつでも身近にあるのは幸せだったが、当時はバブル真っ盛りで、年中無休24時間営業の超多忙な毎日。 とても楽しむ余裕なんてない。 そこで、楽しむために乗れないなら仕事に使っちゃえぇ!! と割り切り、取材や納品、外注先との打ち合わせなど、あらゆるシーンで遠慮なく活用し、コンディション維持に努めていた。 突如訪れた大家族生活で、コンディション維持走行同様苦労したのが自動車税だった。 当時の税額だと、トランザム1台だけで16万円コースだったから、とてもキツかった。 駐車場確保も大切な責務。 でも、自分の性格上、クルマがドンドン増えそうな予感がしたので、あらかじめ農業用倉庫を借りていたので救われた。 ただ、置き場があっちこっちになるのはねぇ……。 台風なんかがくると、クルマが心配でじっとしていられなくなってしまう。 多くの旧車に囲まれた生活は喜びも絶大だが、心労が絶えないのも事実と知ったのだ。 ■エピソード3:ナンバーは選ばず、偶然あてがわれたナンバーを楽しむ!? ボクはある時期哲学にハマっていた。 特にC.G.ユングの提唱した理論である「共時性」には強く共感したのだが、それは、思念のエネルギーと偶然の事象に「関連」を感じていたからだ。 身近な例では、電話番号の下4桁やクルマのナンバーがそれ。 初めて就職した会社の配属先の電話番号下4桁が「9771」で、結婚して最初に借りたアパートに付けた電話の番号下4桁が「7197」。 転職して京都に移り、初めて買ったマンションの部屋が「519号」で、そのときの電話番号下4桁が「5195」だからシンクロしてるように思えるでしょ。 最近でも、「3867」のクルマを代えたら「3864」になって、それを代えたら「3877」だから、なんとなく偶然の引き寄せ現象を感じちゃう。 さらに、その時期に買い足した1台が強烈だった。 友人であるショップオーナーは、910型ブルーバードのバンだから、ナンバーは910にするだろ? と提案してきた。 しかしボクは、偶然の一致を予感するから指定はしないで、と頼み、自分のメモの隅に、多分ナンバーは「38〇〇」or「〇〇77」?と書いていた。 そうしたら、そのナンバーが「8677」!! 笑っちゃうでしょ。 ショップオーナーも驚いていましたよ(^^) この連鎖は、それが最後になって、その後GETした2台には継承されなかったけど、思念が偶然を引き寄せたようで興味深い。 だからボクは意図せずに回ってきたナンバーとともに歩み、次のシンクロを楽しみにしているのだ。 ■エピソード4:2シーターシンドローム 複数所有のメリットは、使用目的に応じたラインアップを構築できること。 例えばボクの場合なら、 1.フェアレディ2000、2.車中泊も快適なミニバン、3.仕事機材が積みやすく機動性に優れる小型ステーションワゴン4.フォーマルな席にも似合う、重厚なセダン5.お買い物やチョイ乗りのアシ ・・・ってなラインアップなら実に明快だ。 実は、東京から兵庫に転居した時点では、この理想に近い状態だった。 セダンは真っ赤なアルファロメオ75TSだったからチョイとヤンチャ系だったけど、足りないのは小型ステーションワゴンだけ。 ・・・で、探し始めたのだが、ここに割り込んできたのがポルシェ964だった。 ステーションワゴンとはほど遠いし、よりによってRSR仕様に作り上げた2シーター。 もちろん金額も圧倒的に高かったのだが、つい、買っちまったのである。 その頃、中古で購入後5年強乗ったプレサージュに大きな修理が必要となったので、ホンダのシャトル(もちろん中古)に代替え。 さらに、アルファロメオ75TSとアシに使っていたプレオRMも手放すことになり、ラインアップの再構築をしなくてはならなくなった。 そんなとき、ついうっかりヤフオクで「ポチってしまったの」がボクスターだった。 すでに2台のナンバー付き2シーターがあるだけでなく、2台持っていたレース用のフェアレディSRのうち、ノーマルエンジンクラス用の1台にナンバーを付けるプロジェクトも進行中のできごと。 こうして完成してしまったのが、シャトル+2シーター4台というラインアップだ。 こちらの画像は、2シーターが4台揃っちまった頃のボクの所有車両。 ボクスターの奥は、当時、唯一の普通のクルマとして活躍してくれたシャトル。 そこにミニ1300iが加わったので、少しはまともになったけど、2シーターを主体とする多頭飼いの実用性レベルは、チイとばかり低すぎた。 我ながら、なんともマヌケなクルマ選びをしたものである。 現在は、2台のポルシェを手放し、ナンバーを付けたレース用フェアレディは初期型の240Zに変身している。 2シーターは2台に減って、なんとなく実用性が向上したけど、実はこれも一時的。 そろそろ、現在仕上げ中の2シーターが完成しちゃいそうなので、またまたややこしくなりそうだ。 ■エピソード5:多頭飼いを苦しめる任意保険 クルマを運転する以上、事故の可能性はゼロではない。 だから当然のこととして任意保険に加入し、そのリスクに備えることになる。 でもね、この任意保険のシステムは疑問符のオンパレードだ。 例えば、長年無事故を継続して、任意保険で20等級であるドライバーが、初めて複数所有を敢行し、2台目の任意保険に新規加入するとしよう。 そのとき、2台目の特例として、初年度から1ランクアップで7等級から始まるのだが、ここで最初の疑問符が舞い降りてくる。 運転者が契約者本人限定であれば、2台契約しようが5台契約しようが、保険会社が請け負う事故リスクは1台だけの契約と同じはずだからだ。 過去のデータから、車種や地域によってリスクに差があるにせよ、それは保険の基本料率の話であって、等級に差を付ける正当性が理解できない。 この問題を考えると、2番目の疑問符も浮上してくる。 それは、同一個人が何台契約しようが、運転者が契約者本人限定なら、1回の運転で動く車両は1台だけであり、保険会社が背負うリスクも当然1台分だけ。 でも、それぞれの車両に対し、保険契約をしないとならない。 契約者個人は、例えば5台所有の場合、1回の運転時に背負う事故リスクを5台分負担するということになるし、保険会社は1台分のリスクで5台分の保険料収入を得ることにもなる。 運転者はひとりでも、彼の所有する複数のクルマが動き回るというなら話は別だが、これはユーザーが圧倒的に不利となるやり方ではないだろうか。 もちろん、車両保険に関しては個別契約が必要だが、対人、対物、搭乗者など、基本的な自動車保険契約部分に関しては、車両にかけるのではなく、ドライバーにかけるスタイルにするべきだと感じる。 これは、任意保険だけではなく、自賠責保険に関しても同様で、自動運転車両以外は、車両個々ではなく、ドライバーにかけるべき保険と考える。 車種によるリスク変化をカバーしたいのであれば、ドライバー保険としながら、その個人が所有する車両の申告を義務付け、必要に応じた係数をかければ良い。 また、契約しているドライバーが一時的に他車に乗る場合の短期契約もあるとありがたい。 任意保険のシステムが、もっと自由に多頭飼いができるよう改善されたなら、出会ったクルマをもっと気軽に受け入れられるのになぁ、なんて思う今日この頃。 これって、ボクの単なるワガママかな……? [画像/ボルボ 撮影&ライター/島田和也]
今から25年前の1997年、平成9年に中古車販売店の営業の仕事をスタートした筆者。 当時、新人セールスの筆者でも月に10台は売れた時代でした。 しかし、その販売スタイルを一新すべく、強行突破で始めたのが70スープラ専門店。 これは大当たり!だったのですが、トヨタ車は壊れないのでユーザーとの接点が希薄になり、パタリと売れなくなったのです。 そこへ、たまたま下取りで入ってきたのが真っ赤な元年式のフェアレディZ(Z32)。 直観的に「これがおそらくラストチャンスだ!日本一のZ32専門店を作るぞ!」と迷いなく決断し、Z32専門店に転換。 再スタートを切ることとなったのです。 (前回のエピソード)■お調子者営業マンだった私が、Z32専門店を立ち上げるまで https://www.qsha-oh.com/historia/article/z32-omura-vol1/ ■なぜZ32専門店に急転換できたか? 当時、雇われていた会社は、東京と神奈川県に8店舗を展開する創業30年の中堅中古車販売店。 特に神奈川県は他社との競合が激しく、食うか食われるかの激戦区でしたから、早急な店舗作りが求められました。 幸い、その会社は店長会議で報告するだけでお店の方向性を決めることができたのです。 社長は数字には厳しかったですが、若い社員がのびのび働ける環境を提供してくれたのだと思います。 私も、ある一店舗を任せれていたので、そのお陰で思い切った店作りを夢見ることができたのです。 ■まず店構えを一新し!Z32を大量仕入れ!派手に宣伝! Z32専門店をやると決めた以上、とにかく店構えが大事です。 それまでのイメージを一新するため、自分で看板をデザインし、一気に交換しました。 これでもう後に引けません。 車種変更もできません。 逃げ道がないよう、自分で自分を追い込んだのです。 同時に、自ら関東・東海の主要オークション会場に出向き、Z32を買いまくって、展示場全体をZ32で埋め尽くしました。 こうしてあれよあれよという間に、Z32専門店のできあがりです。 ショールーム付きで、ピットも併設された立派なお店になりました。 国道16号沿いで立地も最高。 通りかかりの人が、その圧巻の光景に目を奪われたことでしょう。 当時、宣伝に一番お金をかけたのが、雑誌「カーセンサー」でした。 月に2回、カラー見開き2ページで、掲載料は50万円くらいだったと思います。 まだホームページがない頃ですから、とにかく雑誌に派手に露出することが重要だったのです。 さぁ、これで準備万端!ここまでは順調!後は、売るだけです! ■軌道に乗るまでは、記憶に残らないほどの忙しさ! 当初は2人しかいませんでしたので、とにかく忙しい! 軌道に乗るまでの3年間は、ほぼ不眠不休でした。 人間、意外と頑丈ですね。 当時はまだ30代前半でしたので、気力だけで頑張れました。 ただ、何度とか神経痛になりましたが・・・。 その忙しさといえば、仕入れたクルマをその日のうちに磨き、ピッカピカに仕上げて次の朝には並べる。 フロントガラスには、そのクルマの装備や特長を書いてカラフルなイルミネーションを貼る。 週末の前日は、何時になろうと全車綺麗に洗車する。 カーセンサーの原稿は、30台分を手書きで作る。 売れたクルマは、自分で陸運局まで出向いて登録し、納車準備をする。 時には、遠方へ納車も・・・。 頭を使わず、体を使った仕事が多かったように思います。 不思議なのは、その頃の記憶が殆どないんですよね。 ■売ればクレームの嵐!整備の重要性を痛感! 努力の甲斐あって、売れはじめるのは早かったです。 ところが、ろくすっぽ整備もせずに納車していましたので、いきなりクレームの嵐。 70スープラのときとは大違いです。 70スープラは、ご納車後故障もなく、何の不安もなく売っていましたので。 特に多かったのが、「エンジンが止まる!」「エンジンがかからない!」という致命的なものでした。 「厄介なクルマを始めてしまったなぁ」と、後悔先に立たず。 Z32のウィークポイントも知らずに、いいことだけいって売っていましたので、いきなりしっぺ返しがきました。 どうやら、パワートランジスタという部品がダメらしい。 3万円(今は5万円)と高価でしたが、これだけは事前に交換して納車することにしました。 整備の重要性を感じた瞬間です。 これが、整備にも力を入れるきっかけになったわけです。 その後、専属のメカニックを置くようにして、少しずつ整備体制も整えて行くようになったのです。 ■専門店は目立ったもの勝ち!有名になって有頂天に! しかし、当時はまだカスタムやドレスアップが流行っていた頃。 各メーカーから多種多少の魅力的なパーツがラインナップされていました。 優先すべきは、いかに派手するか、格好良くするかです。 メンテナンスは二の次です。 広告塔のデモカーはどこよりも目を引くように仕上げました。 さらに、・雑誌には一番目立つ広告を!・オリジナルパーツも豊富に用意!・イベントにも出まくる!・メンテナンスはどこよりも安く!・極めつけは、エンジンオイル交換永久無料! 集客率を上げるために、思いつくことはすべてやったのです。 ネットの普及に伴って、ホームページでリアルタイムな情報を提供することも徹底していました。 専門店は目立ったもの勝ち! 他社の追従を許さず、ライバルが現れても、どこ吹く風。 飛ぶ鳥を落とす勢いで、快進撃は続きます。 有名になって完全に有頂天になってしまうのです。 ■転落した専門店を救った東京オートサロンの出展! ところが、私の独りよがりでお店を作ってきたので、他のスタッフが付いてこれるわけがありません。 私以外、Z32好きというわけではありませんでしたので、熱量の差が違いすぎます。 接客も整備もクレームが増えて、ネットで悪評が広がり、それまでの勢いに陰りが出はじめたのです。 いつの間にか、ポツンと裸の王様。名ばかりの専門店になっていました。 さて、どう立て直すか? 起死回生を狙ったのが、東京オートサロンの出展です。 ショップならどこでも憧れるクルマの祭典です。 今までの集大成ともいうべき究極のデモカーを作って出てみようと決意したのです。 これでもかというほどお金をかけました・・・。 結果、大反響をいただき「普通の中古車屋さんが、ついにここまで来たか!」と、成功した実感を味わったのを思い出します。 ■10年間やってきた専門店がいきなり消滅!まさかの独立へ! しかし、その達成感は、燃え尽き症候群の引き金となり、一気に気力が失せたのです。 何とか勢いでここまで来ましたが、その先のビジョンが見えなくなりました。 売上目標や月販30台のノルマや数字のプレッシャーにも潰され、精神的に追い込まれていたので、しだいに辞めたいと思うようになっていたのです。 元々、営業が性に合っていませんでしたし。 そんな中、追い打ちをかける人生最大の転機が訪れました。 雇われていた会社が計画倒産したのです。 今まで築き上げてきたものが、一瞬にして崩れ落ち無職に。 すぐに頭によぎったのは「今までのお客様をないがしろにして逃げるなんてことはできない」という想いでした。 辞めたいと思っていたのがまるでウソのようでした。 解放感と使命感と不安感がブレンドされた今までに味わったことのない独特な気分の中、まさかの事態に戸惑っている暇もなく独立を決意することに。 こうして、10年やってきたZ32専門店は幕を閉じ、新たなステージへと進むことになるのです。 [つづく] [ライター・撮影/小村英樹(Zone代表)]
7月中旬、仕事で北海道へクルマで渡らねばならず、久しぶりにカーフェリーを利用しました。 新潟発小樽行きの新日本海フェリー、あくまで自走派の筆者も、納得の快適かつ効率的に動くことができました。 0泊3日の小樽行き。 「また行きたい」と思わせてくれたカーフェリーの旅の魅力、振り返ってみたいと思います。 ■津軽海峡だけを渡るか、陸路の移動を徹底的に少なくするか? フェリーでの旅、いつ以来でしょうか。 子供の頃に有明埠頭からサマーキャンプで四国まで行ったことがありました。 それ以来かもしれません。 カーフェリーとなると、鹿児島の桜島フェリーや、九州に行くのに四国八幡浜から九州大分、あとはたまたまタイミングが良かったので予定外に静岡の清水から伊豆半島の土肥、伊勢湾フェリーの鳥羽から伊良湖岬などで利用したことも。 どれも「基本は自走するけど、たまには利用してみるか」という「選択の上での利用」でした。 しかし今回の北海道行きは、自動車で行くには「フェリーを利用するしかない」。 いわば不可避も利用となります。 さてどのルートで行こうか? 予定が決まった段階でいろいろと調べました。 青森まで自走して津軽海峡だけをフェリーで渡る方法もあります。 メジャーなのは大洗から苫小牧という航路。 いずれにしても、北海道に入るためには絶対にフェリーに乗らなければなりません。 今回の目的地は小樽。 津軽海峡だけを渡って、函館からとなるとかなり距離もあります。 苫小牧からもそこそこの距離。 自走する距離自体には抵抗はありませんでしたが、走り慣れていないルートで何か傷害が起きた場合のリスクヘッジとそれに付随する時間はあまり攻められないなあという判断が優勢になりました(いつものように前後の予定もものすごく空いていて、気ままに眠くなったら道に停めてお昼寝、という訳にはいかないスケジュールでした)。 いろいろと判断した結果、苫小牧着ではなく小樽にダイレクトに行くことにしました。 そうなると利用するのは「新日本海フェリー」新潟、舞鶴からの直行か、敦賀発秋田経由のルート(新潟か秋田発に決まっているだろと思われるかもしれませんが、前後の予定次第では舞鶴、敦賀発もあながち可能性0ではないので一応確認はしました)。 便が多いのと、発着時間的に正午に出発、早朝着というので新潟発小樽行きが使い勝手が良さそうで、これの予約を取ることにしました。 この最繁忙期ではないにせよ、夏の時期は比較的自動車での旅行者も多い時期。 さらに物流での利用もかなり盛ん。 燃油サーチャージなどもあり、結局筆者が利用した便の運賃は片道84,580円(今回は車両引き取りでしたので、積載車での旅、全長8メートル未満、乗員一名分運賃込)でした。 なお、帰りは往復割引が適用されて、1割引に。 値段を聞いたとき、確かに内心「うげげげ、やっぱりそれなりの値段だなあ」とは思いました。 でも色々試算すると、そうでもないことが分かったのです。 何しろ、新潟港昼発です。 早朝出て行っても、前日の夜出発して途中仮眠を取るにしても余裕です。 乗ったらあとは船に委ねるだけ。 到着は翌朝4時半。 夏の時期ですのでもう明るい時間。 ちょっとウロウロしたりできます。 旅行すると早くても昼過ぎに到着、翌朝も朝食を食べたら少し散策して帰るもよいものです。 その点「ゼロ泊」でも、クルマがあるのですから、下手な1泊2泊程度の旅行よりも密度が高いかもしれませんね。 今回は降りるや否や市内でウニマグロ丼を食べて、一度足を運んでみたい余市(ほぼ隣町)までドライブ。 午前中に引き取りを完了して、博物館を見学。 夕方の船に再び乗って帰ってきました。 ちなみに帰りの船は17時小樽発、新潟翌朝9時半着。 この距離の往復を3日でこなせるのはむしろかなり早いイメージ。 行動としては関西周辺までのスケジュール感に近いですね。 岡山以西ですと、もう1日2日余裕を持っておきたい感じさえします。 ひたすら陸路を船の時間を気にしながら走って、高速代(は場合によっては下道利用で浮かせるにしても)、燃料代だけでも片道3万円では収まりません。 どのみち津軽海峡だけ渡るにしても、このクラス、やはり3万円では乗れません。 その間ゆっくり休めること、その効率と宿代などを考えると、乗船した時点ですでに「経済的優位性」はあると感じたのでした。 道中を楽しみながら、という旅もいいでしょう。 しかし仕事が絡んだ効率的な移動という点でフェリーは相当に長けている! 乗る前から感じることができました。 早朝4時から開いている市場食堂はフェリー客目当て?なのでしょうか。 フェリーから降りたライダー中心に早くも店の周りに集結していました。 朝ごはんから2,400円はちょっとやりすぎたかな?と思いましたが、まあ「入道税」みたいなもの、必要経費ですね。 すっきりとした甘味、濃厚なウニの風味がずっと後まで残ります。 小樽でウニ、芸がないようですが、これは執拗に食べたくなる。 こんな「早起きは三文の得」標準装備な船旅。最高ですね。 ■ぜんぜん遅くない!時速25ノットで「進み続ける」フェリーの速さ フェリーの旅、それは遅く時間がかかるというイメージがあるかもしれません。 私も、イメージで決めつけていましたが、これがそうでもないのです。 もしかすると飛行機の次、新幹線とはどちらが速いか。 ルートや移動の種類によってはそのくらいのスピードがある乗り物です。 船内には通貨ポイントの予定時刻が掲示されています。 積丹半島を回り込む航路ということもあって、秋田沖で新潟からだと三分の一。 全航路の半分ほどが北海道の沖合ということになります。 北海道、相当大きい、40代になってこんなことに驚かされるとはと思いました。 確かに最高速度で比較すれば、自動車も時速100キロほど出ます。 大型トラックでも時速90キロほどで高速道路は移動できます。 フェリーの速度は25ノット(時速約45キロ)です。 これだけを比較するととても遅く感じますが、これは巡航速度、出発したら洋上で停まることなく進み続けるのです。 自動車の移動、振り返ってみると分かりますが、大都市圏ではせいぜい20キロから30キロほどしか1時間で移動できません。 地方の郊外のバイパスなど信号停車や渋滞がない場所では50キロ近く移動できる場合もあります、高速道路なら渋滞がなければもう少し進むこともあるでしょう。 しかし、人間が運転している以上、緊張感を保ち続ける時間には限界があります。 16時間以上もの間時速45キロを維持できるフェリーは相当に早いなあと改めて感心してしまいました。 そしてその間、買い溜めておいた本を読んだり、昼寝をしたり、洋上で風に当たる。 十分に休息を取ることができます。 ロングドライブで、途中で寄り道、以外の価値はフェリーを利用することで大幅にハードルが下がるなと感じたのでした。 洋上からは虹も拝めました。 日本の気候、山が影響していることも少なくなく、陸上は雨でも海上はいい天気ということもあるのでしょう。 もちろん逆も然りですが。 最近ゆっくりと月を見たことなど、いつ以来でしょうか? 狙ったわけではないのですが、この晩は満月。 雲が多かったものの、洋上のお月見も、夏ならではかもしれません。 ■早い時間から「飲まねばならない!」のです クルマ旅とお酒の関係。 好きな方は我慢を強いられることもあるでしょう。 しかしフェリーに乗ったらさっさと明るいうちから飲みましょう。 新日本海フェリー就航地が舞鶴、敦賀、新潟、秋田、小樽。もしかするとお酒好きな方は地名を見ただけでその地の地酒、ワイン、など銘酒の数々に思いを馳せる方もいるのではないでしょうか。 クルマを船に積み込んで出港早々是非とも明るい時間から飲み出したいところです。 むしろ飲むなら早めにというべきかもしれません。 フェリーに乗ったら、どのみち航行中は車両甲板には立ち入ることができません。 ドライバーの人はお酒を我慢する意味がないからです。 目の前には大海原が広がります。明るい時間から飲むお酒はどうして美味しいのでしょうか。さっさと飲み始めましょう。 さっさと飲み始めて早めに休んで、翌朝早くに目的地につきますので、むしろ夜遅くまで飲むのは禁忌です。 ちなみに、ターミナルにも掲示がありますが、クルマをフェリーに積み込むまでは飲酒は禁止です。 オーシャンビューでゆっくりできて(するしかなくて)心身の休息にもなる船旅、しかもその間人間は休めても、しっかり移動できている。 レジャーはもちろんビジネスユース(物流系以外でも)もっと見直されていいと思います。 ■船とシンクロ、洋上の名湯を楽しむ クルマで出かけては、温泉に寄るのも好きな筆者、このフェリーには浴室もあって、この風呂、とても気に入ってしまいました。 温泉でもないですし、水は潤沢にある日本国内の一晩程度の航海が主流ですので造水器(海水から真水を作る機械)もないでしょう。 普通のお風呂ではあるのですが、これがなかなかいいお風呂でした。 高層階にあり、窓からの景色(ひたすら海だけですが)を見ながらの入浴はそれだけで、心や気持ちの淀みも綺麗に洋上で洗い流せてしまうかのうようです。 そして露天風呂もあって、もちろん航行中の船舶の中の浴室、入浴中に海に転落してもいけませんし、洋上かなり風も強いですから、防護するためのガラスの仕切りは設けられていました。 それでも、波の音、洋上の風、そして何より、船に同期していい具合にピッチングするさまなど、フェリーの浴室ならではの醍醐味が存分に楽しめるのでした。 よく温まり、ゆったり寝れば、翌日も早朝からしっかり活動できるでしょう。 ■さっそく「またフェリーに乗りたい」 今回の旅は小樽から引き上げてくるだけの用でしたので、0泊3日ですぐに戻ってきてしまいました。 それでも、1泊2日の予定でもああはいかないかもというくらいの充実さはあったと思います。 自由に動けるのがクルマの魅力ですが、長距離ドライブで疲れてしまっては元も子もありません。 コスト的にも時間的にも自走してそこを走ったのとあまり変わらず、さらフェリーを利用しなければ味わえない船旅ならではの洋上の思い出も楽しめる。 なかなかお得な旅なのではないでしょうか。 ひたすら自分でハンドルを握り、アクセルを踏んで走るのが好きな筆者も、大船に委ね、是非また出かけてみたい、と思わされたカーフェリーの旅でした。 特に道東方面、0泊3日や1泊4日程度でも色々出かけられるのではないか。 こんなことならプライベートでもまた出かけてみたいと思い、さっそく出かける理由何かないか探しているほどです。 幼い頃、伊豆七島や、四国に船旅をしたことがあります。 あのときはもっとうるさく、もっと揺れた記憶があります。 もちろん天候の影響がありますが。 思ったよりずっと静かで快適。 大いにのんびりできるて休息しながら、ガッツリ移動もできている。夜行バスに乗ると思います。 自走して仮眠して目覚めると、寝ている間は止まっているわけですから進んでいません。 しかし、目覚めればバスタ。 運転手さんがいるってなんと素敵なんだと思うのです。 けれどもそれは人間だけしか運べません。 しかしフェリーは、普段「自走のクルマ旅は夜行バスのようにはいかない」と思っているクルマごと運んでくれるのです。 某猫型ロボットの出してくれる「どこでもドア」はたちまち移動できますが味気ないですが、旅情もある。 「フェリー、なんて素敵なんだ!」と思ってしまいました。 現代人に必要なことは、距離に負けない物流と同時に、ものが移動するくらいの時間、日常を振り返り、心静かに過ごす。 大海原の波に揺られて過ごす時間、年に1日かそこらは取らないといけない。 そんな思いになりました。 今普段のアシはS660、軽自動車です。 クルマの大きさに依存するフェリーの料金。 なんのための軽か。 是非ともS660でフェリー旅、出直したいと思いました。 港に着き下船が始まる前。いろんな気持ちで船に乗っているのだと思います。 最近ではこういう少なくなったかもしれませんが「旅情の色々」が集う場所。 車両甲板もまた独特の雰囲気がいいものです。 早々仕事も終わり、帰りのフェリーまでの間、小樽市総合博物館を見学。 北海道の鉄道が充実。 小樽の栄えた時代の移ろい、雪との戦い、現存する最古の機関車など、日本の鉄道史上欠かせない展示が数多く、なかなかの見応え。 風雪と除雪剤などで傷んだボディも生々しい急行型気動車キハ27初め懐かしい車体の数々でした。 往年の北海道の鉄道名車の脇にガレージが設けられ、石原裕次郎記念館から移管されたというロールス・ロイス。 アイアンバンパーが端正なシルバーシャドウⅠ 絶対的に軽くはない車重を支えるためにジャッキアップされていました。 お昼はやはり寿司。 八角の握りは初めての体験。 柔らかくあまりこれ見よがしではない品のいい食感と香り。 鯛などとは違った面白い体験となりました。 早朝出発したその船で夕方本州へ帰ります。 小樽市内に引き取りに行き、余市までドライアブして、小樽市総合博物館を見学して、ダメおしの寿司ランチをしても、まだ余裕ある一日。 幼い頃にスキーで家族旅行に来た時に駆け足で寄って以来の小樽。 実質初めてという今回は十分すぎる満足度でした。 車両の大きさと重量をうまく組み合わせて積み込む様子もなかなか興味深いもの。 今回はサーブ900の引き取りでしたが、帰りは一番最後の乗船案内され、この位置にバックで駐車。 フェリーでのバックでの駐車は初めての体験でした。 [ライター・画像/中込健太郎]
■活況だった1990年代後半の中古車業界 私が中古車販売店の営業になったのは25年前の1997年、平成9年のことでした。 当時はまだ「旧車、旧車」と騒がれていない時代でした。 新車販売が低迷するなか、中古車業界は活況。 軽自動車、ミニバン、ステーションワゴン、セダン、スポーツカーなど、どのジャンルも飛ぶように売れる時代でした。 1997年といえば、中古車販売もインターネットより雑誌媒体が主流。 関東版カーセンサーやGoo(現グー)は約3cmもの分厚さだったんです。 それだけ、中古車販売店や掲載する台数が多かったということですね。 当時はとにかく若いお客様の勢いがすごかったことを覚えています。 免許取り立ての方も頭金なしで、すぐにローンを組んでクルマに乗っていたような時代です。 100~150万円くらいの価格帯の中古車が売れ筋でした。 新人の私でも月に10台は売れた結果、すぐに天狗になってしまう業種だったのです。 独立も夢ではない、古物商と土地と資金があれば開業できました。 販売車の仕入れのほとんどが業者オークションで、売れ筋を買い集めたもの勝ち!という世界。 今振り返ると、程度を見極めて仕入れしていた販売店があっただろうか・・・。 メーター改ざん車や、修復歴有無の確認が曖昧のままユーザーに流れているケースも多かったように思います。 ■勢いのある中古車業界に飛び込んだ結果・・・ 私が最初に配属になった店舗は、スポーツカー専門店でした。 R32スカイライン、S13シルビア、180SX、ソアラ、スープラ、MR-2、セリカ、RX-7、GTO、ドリ車など人気車がずらり並び、華やかな展示場でした。 土日は朝から来店が絶えず、店頭にならべられた中古車は次々に売れていきました。 ただ、似たようなお店が同じ県内に続々と出店してきた結果、客取り合戦が勃発。 とにかく中古車を売らなきゃいけない時代でしたので、展示車をどこよりも綺麗に見せて、いいことをいって売る営業スタイルになっていたのも事実です。 クルマの知識はそこそこに「どうやったら客を落とせるか?」というしか考えていませんでした。 なにしろ、中身のない「お調子者営業マン」です。 そんな調子だったので、クレームが多かったことも事実。 売れば会社に評価されるけれど、何とも後味が悪い・・・。 気付けば数字に踊らされて、お客様のために売っているという実感がなくなっていったのです。 ■他店との差別化で生まれた70スープラ専門店 そんな葛藤のなか、悩んでいる暇もなく、ずるずると時は流れてしまいます。 そんなとき、あるきっかけから、車種を絞った専門店に目をつけたのです。 それはつまり、同業他社とは一線を画す「差別化戦略」でした。 1990年代後半当時、スカイラインGT-R専門店は存在していたと思いますが、車種を絞ることでお客様も減るので、当時の社長には大反対されました。 強行突破ではじめたのが70スープラ専門店です。 セリカXXに憧れていた時期があったので、70スープラは自然な流れだったのかもしれません。 なぜこれにしたのか?実ははっきりとは覚えていません。 でも・・・これは当たりました。 特に2.5GTツインターボRは、置けば売れる入れ食い状態でして、全国のオークションで片っ端から仕入れしました。 しかし、スープラが売れまくる一方で、物足りなさもありました。 トヨタ車は壊れないので、ご納車後、次にお客様とお会いするのは車検のタイミングなのです。 久しぶりにお客様へ連絡してみると、いつの間にか別のクルマに乗り換えていたり、他のショップに出入りしていたり・・・。 自分でも、何のためにクルマを売っているのか分からなくなりました。 クルマを集めて、ただ磨いて売るだけなら誰でもできる。 30歳を過ぎて、こんな仕事をしていてはダメだと思うようになっていったのです ■運命的な出会いとZ32専門店の誕生 そんななか、たまたま下取りで入ってきたのが真っ赤な元年式のフェアレディZ(Z32)でした。 私が二十歳の頃にデビューしたクルマでしたが、当時は高嶺の花だったので、頭からすっかり消えていたのです。 改めて見たZ32は、華やかで、美しくて、格好良くて・・・。 今まで見てきたスポーツカーとは違う雰囲気とオーラを持っているように感じたのです。 まさに運命的な出会い。 私は直観的に「これがおそらくラストチャンスだ!日本一のZ32専門店を作るぞ!」と迷いなく決めました。 特にトヨタが良いとか、日産が良いとか、メーカーへのこだわりはなく、Z32の格好良さだけで決めたようなものでした。 その頃のZ32はまだ新車も販売している現役モデルでありながら、中古車相場は100~200万円に落ち着いてきていました。 なぜか根拠のない勝算と自信があったのです。 しかし、この決断が自虐行為になるとは思いもよらず・・・。 実は、そこからさらに苦悩の日々に陥っていくのです。 [つづく] [ライター・撮影/小村英樹(Zone代表)]
■第3回 ~アルミ弁当箱協会のこれから~ どうも!「日本アルミ弁当箱協会」会長のマツド・デラックスでございます。 「旧車王」に連載3回目となりました今回は、「アルミ弁当箱協会のこれから」を熱く語らせていただきます! ■コレクターはアーティストにはなれないと気づく 今年の「ノスタルジック2DAYS」や「アメイジング商店街」そして有楽町マルイでの「のなかみのると仲間たち」に参加させていただき、改めて認識したことがありました。 それは「コレクター」は「アーティスト」にはなれないということです。 人によっては当たり前のことかもしれませんね。 「何を今さら?」と思われても不思議ではないかもしれません。 私はとこかで勘違いをしていたところがあったと思っています。 「他人のやっていないことをやるのだから・・・・的な考え」がそう思わせたのかもしれません。 しかし、本物の「アーティスト」の方たちに囲まれたときに、ちっぽけなプライドがすっ飛びました。 ■コレクターを極めようと決めた日 コレクターを極めるために、ただひたすら「アルミ弁当箱」を集める・・・。 それでは「日本アルミ弁当箱協会」などという団体を作っても意味がないのです。 そこには、旧車の不人気車を愛するような愛情と、「その子たち」をどうやって後世に伝えるかということも使命のひとつだと思っています。 アルミ弁当箱から伝わる世相や歴史観について「アルミ弁当箱コレクターだから発信できること」がたくさんあると思っています。 「日本アルミ弁当箱協会」を通して、斜めからの角度で独特の方法で伝えることが「コレクターの極み」ではないかと再認識しました。 ■昭和の伝道師に俺はなる! 「旧車王」が自動車文化を通して「昭和」を伝えていくよう、これからの「日本アルミ弁当箱協会」はアルミ弁当箱を通し「昭和」の文化や世相を伝えていきたいという想いがあります。 いつの日か「アルミ弁当箱ミュージアム」を作り、これまではスポットライトが当たることなく消えて行くものから新たな力を生み出し、皆さまに少しでもお役に立つような「昭和の伝道師になりうるコレクター」になりたいと思います! ■今回の斜めから見た旧車「パルサーエクサ(1982年)」 さてまたまたやってきましたこのコーナーは、本当に無理矢理アルミ弁当箱からの「斜め」から見た旧車コーナーです。 今回は「パルサーエクサ」です。 ではなぜ今回「パルサーエクサ」なのか? それにはあるアルミ弁当箱が関係しています。そのアルミ弁当箱とは?1977年に放映された「ジャッカー電撃隊」です! こちらに描かれている「スペードマシーン」。 もう旧車王の読者の皆様にはベース車両が何かおわかりでしょう。 そうです!秀逸のデザインで未だに根強い人気を持っている「フィアットX1-9」です。 また個人的な話になってしまいますが、私も「1300」と「1500」の2台所有したことがあります(無類のタルガ好きです)。 特撮車両になっても、ほとんど手を加えることがなかった斬新なデザインがたまりませんでした。 それから5年後「パルサーエクサ」が発売となります。 そのときに私は「ジャパニーズX1-9」といった佇まいにときめき、日産のディーラーにカタログをもらいに行ったことを覚えております。 ジャッカー電撃隊のスペードマシーンから「パルサーエクサ」を紹介するという暴挙と妄想をお許しください。 それほどこの「エクサ」は当時の日本車としてはぶっ飛んだ1台だったので、アルミ弁当箱とコラボさせて頂きました! こんな感じで「ゆる~く」また旧車を紹介していきますのでよろしくお願いいたします。 そしてここでお知らせを・・・・・。 私のコレクター本「アルミ弁当箱図鑑 マニアック編」が9月1日からアマゾンにて予約開始となりました。発売は9月17日です。 オールカラーの100ページに様々なジャンルのアルミ弁当箱を詰め込んでおります。是非、読んで頂ければありがたいです!よろしくお願いいたします。 ◎アルミ弁当箱図鑑 厳選50 ーマニア編ー マツドデラックスコレクション (ヴァンタス) 単行本 – 2022/9/17https://www.amazon.co.jp/dp/4907061471/ [撮影/ライター・マツド・デラックス(山本圭亮)]
去る2022年7月15日、トヨタ自動車が新型クラウンを発表しました。 1955年に登場したこのクルマ、16代目となる新型クラウンは、あまりにもそれまでとは様子が違うクルマになっていました。 正直、初めて見た瞬間、とても大きな衝撃を受けたほどです。 今回はそんな新しいクラウンの誕生を受けて、私が抱いた第一印象から、そもそも「クラウンとは?」について、少し考えてみたいと思います。 ■新しいクラウンを目にしたとき、もうクルマ好きを辞めようかと思った 第一印象で私がどう思ったか。 それはそれはもうショックでした。 この国で生きてきて、何か「絶対に変わらないもの」がクラウンである。 そんなふうに思ってきたのかもしれません。 それも私の勝手な解釈ではあったのですが、そんな身勝手な決めつけは「クラウンに裏切られた」とさえ感じさせたものでした。 そして思ったのが「あんなクラウン、もうクラウンではない。もういっそクルマ好きなんて辞めてしまおうか」そう思ったほどです。 こんなにシャープに、そして明確にそんなことを思ったクラウンは初めてでした。 お役人が運転手付きで乗る。 パトカーに採用される。 日本の社会では、ある種の信用を示す証のようにも受け止められることがあるクルマ。 クラウンに乗っている人は信用しても良い。 この国特有のクルマがクラウンでした。 けれども私が今までこのクルマに抱いてきたそんなイメージを、綺麗にそして大胆に崩しさるだけのものを、新型クラウンは持っていました。 ご実家がタクシー会社だった自動車評論家の故・徳大寺有恒さんもこんなことをおっしゃっていたように記憶しています。 「幼少期から新しいクラウンが登場するとそれがやがてタクシーのフリートとしてとても身近な存在。自動車評論家をしているのは、新しいクラウンをキャッチアップするため」と。 徳大寺さん、ご自身の愛車にはいつも輸入車を乗り継いでこられ、ともすると「クラウンの対局」のようなクルマがお好きという印象があります。 好みは好みとして、ご自身の歩幅と、日本の自動車とどういう位置で歩き続けるかをしっかりと意識されていた言葉という風に感じられてとても印象的な記述でした。 いつも服装初め身につけるものも洒落ていて、ファッションも大切にする。 そういう人がこう口にしたことも、私に「クラウンは信頼のブランド」と認識させてきた大きな理由となってきました。 そんなクラウンの変わりようには正直相当ショックを受けた。 これが正直私の16代目クラウンに対する率直な第一印象でした。 「膝から崩れ落ちるような」ト書きにそう書かれていても多分ピンと来ないでしょう。 しかし、あのときそれがどういうものかわかった気がしました。 私はいっそ、クルマ好きを金輪際やめよう、そう思ったほどの衝撃を受けたのでした。 ■「変貌」はしたが、「変容」はしたか?ブロンズのボディカラーに撃ちのめされた ただしかし、そんな衝撃は半日と経たずに、撤回を強いられることになるのです。 四つのボディタイプ。その中でも「クロスオーバー」と呼ばれる4ドアクーペでやや車高を上げたようなボディ。 この手の「変わり種」はもともと嫌いではありません。 ネット上を飛び交う写真をいろいろみていたら、これのブロンズのボディカラーが目につき「もしかしてとても良いかも」と思えてきたのです。 これは1980年代頃のザガートのデザインを受け入れていく過程にとても似た現象だと思いました。 第一印象、怒りを帯び、半ば嫌悪感さえ感じるようなあの感覚。 しかしながらそれらを眺めていて「あれ?もしかして秀逸かも」と、ちょっと好感を持ちはじめ、ちょっと気に入ってしまったら最後。 その魅力に取り憑かれ、自分が最初に下したイメージさえ、綺麗さっぱり切り捨てて忘れ去り、その魅力の虜になってしまうものです。 この時点で、クルマ好きを辞めるのを止めることにしたのはもちろんのこと、むしろすっかり「新しいおじさんグルマ」で欲しい車種リストの方に名を連ねる始末。 この優柔不断な感じは我ながらいかがなものかと思いますが、いやいや、柔軟性と呼んでほしいという自分もいたりして。 少なくとも今までに感じたことのない「新型クラウン」の誕生を迎えたのでした。 見た目の新奇さはしかし、4代目クジラクラウンの現代的解釈?と取れなくもないものですが、それ以上に「クラウンの有り様」の面で変革を打ち出したように感じるのです。 「変貌にも勝る変容」それが16代目の本分なのでは?そんな気がしているのです。 ■消える伝統と生き延びる革新 ボディタイプは4種類、最上位に6気筒エンジン搭載グレードを据えて、FRレイアウトを、というのはいつの時代の話だ、ということなのではないでしょうか。 私の幼少期からこの世に存在するクラウンも、景気が右肩上がりで成長していた頃は4年に一度実施されていてモデルチェンジで現れる新型クラウンも、いつでもそんな構成でした。 よって、もはやそれが常識、自然現象、抗うことのできないこの世の重力のように受け止めてしまっている自分を、改めてこの16代目のクラウンは自覚させるのでした。 しかし、そうでなくてはならない理由などどこにもないのです。 「伝統のクラウン」はこちらの勝手な決めつけであり、初代はトヨダ謹製「純国産乗用車」むしろ大いにチャレンジの旗手であったし、常に新時代の門を開けてきたのがクラウンだったのです。 確かに長いこと変わらなかった部分もあって、初代から、基本となっていたドライビングポジションなどはペダル・ステアリング・着座位置などで初代から相当最近のモデルまで守っていたのかもしれません。 ただ、日本人も食生活も生活様式も変わりました。 平均身長も手足の長さも、ちょっとした外国人のようになった部分があります。 あの佇まい以外にも、いわゆるぼんやりと、なんとなくムードで世の中の要請に応え続けてきたクラウン。 それで良いのか果たして?という部分もあったのではないでしょうか。 白い、コンサバティブなフォルムと佇まいのクラウン。 それを踏襲し続けて「市場よ!果たしてそれで本当に君たちは買うのか?このクラウンを!」とかなり声高に問いかけ、そうはいかないだろう!ならば、そういう声に翻弄されない!という一つの決心のようなものをこのクルマから感じるのです。 語られる「伝統」は往々にしてすでに「過去のこと」であります。 しかし、実は立ち位置を踏まえて、いろいろと試行錯誤を繰り返して、もちろん悩み、迷ったうえででも変革したモノが、後からその足跡を振り返ったときに「伝統」のブランドと呼ぶに足る継続と歴史を積み上げているということなのではないでしょうか。 クラウンとスカイライン。 この国において「伝統」という言葉に緊張感を持って向き合っているクルマだと思います。 それぞれに守るものと捨てるものの間で葛藤し、市場の声に翻弄され続けてきた歴史を持つクルマだと思うのです。 とにかく作り手としての「私はこう行く」というプリンシプルをここまで強く貫いている新型車の登場は、あまり記憶にありません。 ■「クラウンである意味」とは? ここまでの変わりようを目の当たりにすると、ここまで変わるなら「クラウンである意味あるの?」という疑問も出てきます。 実際にそんな意見SNSでは見られました。 しかし私が思うにクラウンだから意味があったのではないか、ということです。 おそらく、過去に囚われないクルマ作りはされているかもしれません。 おそらく色んな要素が盛り込まれているでしょう。 その意味では「キャラクター設定」みたいなものもはあったにせよ、その中での自由は案外あったかもしれません(この部分は是非一度実際に乗ってみたい。そして判断したいところです)。 ただ、クラウン自体のあり様に関しては、かなり掘り起こして、読み解き、矛盾も違和感も伴わない再定義のようなことはかなり綿密かつ厳格にやったのではないでしょうか。 「誰が観ても未だかつて観たことのないクラウン」にして「一度乗ればこれが令和のクラウンだと感じることができる」のような匙加減について、そのバランスは、結局未だに一度も実物を見れていないのですが、かなり楽しみなところです。 などなど、考えていくと、クラウンでなくても良いのかもしれないが、やはり「それをクラウンでやる」からこその意味があるのかも、という気がするのです。 ■ブレシア森さんにとっても原点はクラウン 先日、宇都宮で古くは戦前車から整備修理を手がけるクラシックカー専門ガレージ「スクーデリア・ブレシア」を訪れた際、リフトの上で一台の古いクラウンが整備中でした。 これはなんでも、代表の森さんのお父様が購入されたクラウンとのこと。 「購入してすぐに亡くなってしまったので父の片身でもあるんです。子供の頃空き地でこれを動かしたりしていたもんだから、クルマの道に進むことになったようなもんですね。この音!聞いてみて!塗装は一度やりましたが、そのほかは基本的にフルオリジナル。これがクラウンのクオリティですね」 と話しながら、ドアを開け閉めしてくれました。 厚手な鉄板で作られて、チリも綺麗に整い、半世紀以上経ってもブレのない重厚に整った開閉音。 モノづくりの威光のようなものを感じさせます。 おそらく、日本車の第二章が今からはじまるのではないか。 そのくらいのエポックメイキングさが16代目のクラウンには感じます。 ブレシアの森さんも、新しいクラウン「面白そうだね」と興味あるご様子。 もちろん普段昔のクルマを扱っているからという面もあるでしょう。 反動と言いますか。 しかし、決して「一蹴」しない見立て、筆者のような若輩の身がこういう新登場に心揺さぶられないことはなんだか恥ずかしいことのようにさえ感じたものでした。 同時に、私が受けた衝撃からの心惹かれていく過程。 なかなか今までにないセンセーショナルな一台が登場した、とまでは間違いないように感じるのです。 今まではどこかの国のどこかのクルマ目指してで来た日本車。 今ここにようやくそういうものとは決別した「我が道」で行くクルマづくり、そのスタートラインに立てたのかもしれない。 そんな気持ちにさせる一台、それが新しいクラウンなのではないか。そんなふうに感じたのです。 みなさんは新しいクラウン、どう思われました? 路上でこのクルマを見る日がいまから待ち遠しい。 そしてできればアルプスを超えてヒスイ海岸くらいまでドライブに行きたい。 そんな気持ちでいっぱいなのですが。 [画像/トヨタ ライター・撮影/中込健太郎]