オーナーインタビュー

「現状維持ではなく、つねにプラスへ」岡山のドリフトドライバー・丸山やんの挑戦
オーナーインタビュー 2023.12.28

「現状維持ではなく、つねにプラスへ」岡山のドリフトドライバー・丸山やんの挑戦

2023年9月、晴天の備北ハイランドサーキット。 この日は「D1ウエストディビジョナルシリーズ(地方戦)」第3戦が開催されていた。 コースインした白いボディの日産シルビア(S14)が加速していく。 鋭い振り出しでドリフトの姿勢に入ったかと思うと、スピードを落とすことなく姿勢を保ったまま旋回。 1コーナーをアグレッシブに駆け抜けた。 ピットに戻ってきたS14シルビアのドライバー・丸山やん選手は、ヘルメットを脱いで滴る汗を拭う。 「走る瞬間はまだ緊張してしまいますね。『俺を見てくれ!』というメンタルに早くならないと」 この日、D1グランプリ直下のカテゴリ「D1ライツ」シリーズへの出場ポイントを満たし、悲願だったライセンスを獲得した。 来年、丸山選手の新たなチャレンジが始まる。 ■ドリフトドライバー・丸山やん 岡山県在住の32歳。 幼い頃からの愛称「やん」が競技ネーム(以下、やんさん)。 決まれば恐ろしい破壊力を発揮するという、「爆発的な走り」を持ち味としている。 所属は「ASK motorsports」。 株式会社オートショップカンダ代表・菅田政宏さんがオーナーを務め、さまざまなモータースポーツに参戦するチームだ。 菅田さんはD1、D1SLドライバーの経歴を持ち、現在はロードスターカップ、ロードスターパーティーレースに参戦中。 メカニック助手の「しゅん」さんと3人で2024年、まずはD1ライツシリーズに挑戦する。 ▲代表の菅田政宏さん(左)、丸山やんさん(中央)、メカニック助手のしゅんさん(右):レーシングシミュレータースペース「SimGoya(シムゴヤ)」にて 平日は会社員、週末はドライバーという生活を送るやんさん。 週末は練習や競技。 普通の人なら「きつい」と感じる生活を継続する原動力はどこからくるのだろうか。 今回は新たな一歩を踏み出そうとしているドリフトドライバー「丸山やん」さんをカーライフとともに紹介する。 ■ドリフトの原点、師匠との出会い ドリフトに憧れ、18歳で運転免許を取得してすぐRX-7(FC3S)を購入したというやんさん。 憧れるきっかけとなったのは、助手席で体験したドリフトだったという。 やんさん:「サーキットで助手席に乗せてもらったんです。当時の自分にとって、ドリフトするクルマの動きや感覚は異次元のものでした。この走りを思い通りにコントロールする技術に魅力を感じて、自分もやってみたいと思いました」 しかし、RX-7はサーキットでクラッシュして廃車に。 それでもドリフトがしたくて、知人に紹介してもらった菅田さんのショップを訪れたのが最初の出会いだった。 やんさん:「親に内緒でシルビアを売ってほしいと菅田さんに頼み込んだんですが、『20歳になって、自分の名義で買えるようになってからにしなさい』と、そのときは断られてしまいました。諦めきれない気持ちでいっぱいでしたが、20歳までグッとこらえてドリフトDVD漬けの日々に(笑)」 ▲好物はオクラ、音楽はRed Hot Chili Peppersを好む それから2年後、機は熟した。 「20歳になったので来ました」と、やんさんは再び菅田さんの店を訪れ、弟子入りを志願したのだ。 やんさん:「当時D1、D1SLドライバーとして活動していた菅田さんを知ったことで、自分の中で『競技としてやってみたい』という気持ちが芽生えました。 自分のドリフトが評価され、何が足りないのかが結果で明確になる場所であり、活躍できる場所。そこで自分がどこまで通用するのか、競技の世界に身を置いてみたいと思ったんですね」 いっぽうで、菅田さんはこう振り返る。 菅田さん:「初めて来たときは、まだ18歳。どの道あきらめるだろうと思っていたので、正直驚きました。良くも悪くもストイックで一本気な性格。自分が“これだ”と思ったらずっと追いかけるのは、13年経っても変わりません。一言でいえば頑固で面倒くさい男です(笑)」 ▲菅田さんの試合にスタッフとして帯同しながら整備を学び、自分の積載車も購入した ■成長に気づき、自信に変える力 13年という競技生活のなかで、結果の出ない時期に焦りを感じたことは一度や二度ではないはずだ。 時に苦しい中でもドリフトを続けられた理由を尋ねてみた。 やんさん:「どんな小さなことでも“楽しい”と感じられたときが、自分が成長した瞬間だと考えています。 色んな場面で『自分の成長を確認する』という積み重ねが、モチベーションにつながってきたのかもしれません。 良い走りができたときはもちろん、順位が上がってくると声を掛けられる機会が増えるので、会話も楽しくなります。そこから『認めてもらえている』という自信につながっています。 何よりドリフトが楽しいです。未経験からスタートして、今はさまざまなドライバーと一緒に走れるようになったことがうれしいですね」 「日々の積み重ね」は漠然と語られることが多いが、それは「自分の成長に気づけること」でもあるのかもしれない。 サーキットでの練習だけでなく、基礎的なトレーニングも欠かさない。 やんさん:「クルマの前輪をジャッキアップして少しだけ浮かせて乗り込み、ハンドルを左右最大限に切ることを繰り返すロック・トゥ・ロックの練習をしています。 また、普段の運転にもトレーニングを取り入れています。先端に重りがついた振り子のようなものをルームミラーに付け、荷重の掛かっている場所を可視化することで、どこにGが掛かっているのかを意識して走る練習をしています。 このような練習方法は、師匠の菅田さんからアドバイスしてもらっていますが、ほかにもレースに出るなどの経験を積ませてもらっています」 ■師匠のパーツを受け継ぐ愛機・S14シルビア ともに戦うS14シルビアは、ドリフトを始めてから2代目のマシン。 初代マシンは、師匠の菅田さんが選手時代に乗っていたS14を受け継いでいた。 しかし廃車になってしまったことで2018年からこのマシンに乗っている。 ちなみに、初代マシンからはボンネットを受け継いでいる。 ボンネットを開けたとき、その名残に気づかされる。 ▲菅田さんの代から施された4回の塗装が歴史となってボンネットに刻まれている 実は今年の5月、練習中に全損レベルのクラッシュに見舞われていたそうだ。 今シーズンは絶望的かと思われたが、菅田さんと古くから交友のある岡山市の板金会社「FAIR HAIRED」にフレーム修正や板金を、現役時代のチームメイトだった福山市の「星光自動車」から足回りなどのパーツ供給を受け、S14は復活を果たした。 競技を続けるなかで、やんさんはクラッシュの恐怖心とどう向き合っているのだろうか? やんさん:「恐怖心は、正直克服できないです(笑) ですが、つねに『確実な操作』を意識しています。ドリフトはやはり『アンバランスをコントロールして走らせている』ので、操作に迷いがあるとそれがクルマの挙動としてそのまま現れてしまい、最悪クラッシュ!ということになりますよね」 マシンはホームでもある備北ハイランドサーキットで有利な仕様だが、各サーキットによってギア比などを変更。 エンジンはフルオーバーホールしているがハイカム、鍛造ピストンなど、至ってオーソドックスな内容だ。 この先、D1ライツへ出場するための大幅な仕様変更が予定されている。 例えば、タービンはTD06L2-20Gでかなりのローパワー、ミッションは5速ドグミッションに換装されているが、いずれも変更予定だという。 やんさん:「良いパーツを装着しても、トラブルが多発しては元も子もないので、トラブルの原因を潰す作業や壊れにくい工夫をその都度考えています。菅田さんの整備が行き届いていて、これまで本当にトラブルが少なかったです。ありがたいですね」 ■愛車のE36は「癒しの存在」 プライベートでは、2年前からBMW 3シリーズ E36クーペを所有。 競技のことだけ考えていても行き詰まるので、時間ができるとE36でドライブすることが気分転換になっているという。 やんさん:「左ハンドルで乗ることも運転技術の向上につながりますし、楽しく乗っています。エンジンの軽快さが気持ち良く、メリハリのある動きをしますね。ボディ剛性も高いと思います。モータースポーツで評価されているのがよくわかります」 ▲シルバーを希望していたが、今はこの黒いボディにして良かったと思っているそうだ 気分転換とはいえ、つねにトレーニングの意識は欠かさない。 そんなやんさんに愛車との出会いを伺ってみた。 やんさん:「DVDでE36のチューニングカーがドリフトしている映像を見たのがきっかけですね。 もともとスクエアなデザインの旧車が好きだったので、好みにバッチリはまる感じでした。自分がここまで好きになったクルマは初めてかもしれません。ちょっとやんちゃな顔も良いですよね。 とくに真横からのフォルムが気に入っています。それから、純正テールの形状もきれいですよ」 ▲前後のバランスのとれた控えめなローダウンで引き締まった印象に。(左)好きなポイントのひとつだという純正テール(右) 納車当時はかなりくたびれた状態だったが、師匠の菅田さんからの手助けやアドバイスを受けつつ、多くがやんさんの手でリフレッシュされた。 中でも天井の張り替えは苦労したそうだ。 ▲BBSの純正ホイールがしっくりくる リフレッシュしながらモディファイも数多く施されている。 スタイルのテーマは「純正パーツを基本とし、保安基準内でいかにカッコいいスタイルを作るか」。 ラグシュアリーさと硬派さが同居した“大人の佇まい”を持つこのE36には、どんなこだわりがちりばめられているのだろうか。 やんさんに詳しく教えていただいた。 ▲グリルのモールも二段になった前期型のものを やんさん:「このE36は1998年式の後期型です。 本当は前期型のスタイルが好きなのですが、程度の良い個体は後期型のほうが多かったんです。そこで、純正パーツを前期型のものと交換している部分が結構あります。 例えば、後期型ではクリアタイプのウインカーを前期型のオレンジタイプに。キドニーグリルも、細かいんですけど前期型のモールの部分が二段になっているタイプが好きで交換しました。 カーオーディオは社外品ですが、パネル照明が最小限で内装になじむデザインにこだわりたかったんです。コンチネンタルのオーディオがぴったりでした。 今後もリフレッシュしながら永く乗っていきたいです」 前期型ならではのデザインを取り入れた後期型のE36は、S14と同じくやんさんの大切なパートナーだ。 ▲ドライバーコンシャスな運転席(左)。オーディオはこだわりのコンチネンタル製(右) ▲エンジンカバーを開けて点検、整備したときの1枚。2年間トラブルもなく快調だという[写真提供 / 丸山やんさん] ■シミュレーターでさらなるレベルアップを やんさんは、2022年からレーシングシミュレーターでのトレーニングもメニューに追加。 菅田さんが自社の敷地内にオープンさせたレーシングシミュレータースペース「SimGoya(シムゴヤ)」で練習に取り組んでいる。 同スペースにはVERSUS製のシミュレーター筐体(きょうたい ・以下、シム)を導入。 ボディ強度、ステアリング、ペダルの抵抗まで実車に限りなく近いフィーリング。 路面温度やタイヤの摩擦係数まで再現するという。 菅田さんによると「サーキットで感じる目と手の記憶を呼び起こし、脳内で変換する必要がある」とのこと。 菅田さん:「サーキットから帰ってすぐシムに乗ると、体がGを覚えているので超リアルです。しかも真後ろから運転の様子が丸見えなので、ドライバーのクセもよくわかるんです。 最近では、レース未経験者がシムで練習してリアルなレースで優勝するケースも多々あります。モータースポーツにおいて、シムは無視できない存在になっていますね」 ▲ステアリングとともにフォーミュラマシンの右シフト、パドルシフトにも対応(左)。オンラインレースの順位からペダルの踏力、タイヤの温度、内圧などもタブレットに表示される(右) このシステムを、やんさんは自分のドライビングにどう生かしているのだろうか。 やんさん:「走行ラインを変える、ギア比を変えるといったシミュレーションにすごく役立っています。実車で走った後の復習はもちろん、サーキットで練習する内容を予習できるのも良いですね。 それから、平常心を保つメンタルトレーニングにも役立っています。今のテーマでもあるんですが、どれだけ冷静に操作して実力を発揮するかを課題としています。 普段できていることも、冷静さを欠くと失敗します。シムでの練習は、実車で走る緊張感とほぼ変わらないので、メンタルを鍛えるには最適なんです。 オンラインでのレースにも参加しています。マシンが接触したら謝罪しますし、マシンも壊れるので、本当に実車と変わらないですね」 そう話したあと、シムの車輌データからE30をセレクトしてドリフトを披露してくれた。 ■エピローグ やんさんは今、来年のD1ライツへの出場するための準備に追われている。 会社員として勤務しつつマシンの仕様変更や関係者への挨拶まわりをこなしながら、これから駆け抜けていく未来へと視線を向ける。 やんさん:「今よりも進化したいなと思います。現状維持ではなく、プラスに持っていきたい。視野を広くもって自分がやるべきことをし、確実に結果を出していきたいです」 最後に、D1ライツ参戦への意気込みを伺った。 やんさん:「D1ライツという表舞台で上位を、もちろん優勝を目指して努力していきたいです。 やはり、自分1人ではここまで来ることはできなかったですし、これからも自分だけでドリフトを続けていくことはありえません。チームの皆、スポンサー様、応援してくれている皆さまへの感謝を結果で返していきたい気持ちです!」 2024年は、やんさんのさらなる飛躍の年になる予感だ。 ●取材協力 株式会社オートショップカンダSimGoya https://www.instagram.com/simgoya_racing_sim/ 備北ハイランドサーキットhttps://bihoku-circuit.com/ トータルガレージダイVERSUS Racing Simulator Pro Shophttps://vs-versus.jp/ [ライター・撮影 / 野鶴美和]

“伝説の軽トラ”ホンダ T360(AK250)復活記【後編】
オーナーインタビュー 2023.10.27

“伝説の軽トラ”ホンダ T360(AK250)復活記【後編】

当記事の「前編」では、オーナーの淵本芳浩さんのT360(1965年式)が修理されるまでをレポートした。 ● “伝説の軽トラ”ホンダ T360(AK250)復活記【前編】https://www.qsha-oh.com/historia/article/honda-t360-part1/ 今回の「後編」では、淵本さんのT360の修理を担当した整備士、西栄一さんのT360(1966年式)を紹介。 西さんは、この個体を手に入れて今年で50年を迎えたそうだ。 前編でも紹介したとおり、部品取り個体を入手したことで淵本さんと西さんのT360の修理を実施。 今回は西さんの所有する個体に注目しながら、T360の魅力を掘り下げてお届けする。 ■ホンダ T360とは 前編のおさらいにはなるが、ホンダ T360は二輪メーカーだったホンダが四輪業界へ進出した際、初めて市販された四輪自動車。 1963年から1967年まで生産されたセミキャブオーバータイプの軽トラックだ。 水冷直列4気筒DOHCエンジンを国産車で初めて搭載したクルマでもある。 エンジンを15度に寝かせて座席の下に搭載する、ミッドシップレイアウトとなっていた。 当時の国産車のエンジンは、4ストロークOHVエンジンが主流だった。 軽自動車においては2ストローク2気筒、20〜25馬力程度の時代、T360は最高出力30馬力を8500回転で発生する高回転高出力型のDOHCエンジンを搭載。 吸気系に4連キャブレター、排気系はタコ足で武装。 当時の高級乗用車と比べても異次元のメカニズムで高性能を誇った。 ⚫︎細かい変更・改修が繰り返され、部品が合わない場合も T360はデビュー以降、細かな設計変更・改修を繰り返しながら実用的な軽トラックとしてあるべき姿になっていく。 ただ、設計変更時の明確なマイナーチェンジモデルは存在しない。 現場の声に素早く対応するため、その都度設計変更・改修が加えられたからであった。 よって、同じ年式の部品取り車があったとしても、部品が合わない状況が多々ある。 これが T360の維持と再生を困難にする一因にもなっている。 以上のような、現代にはありえない別格の生まれであることが、このクルマの魅力の一部にもなっているのだろう。 ■同じ型式でもさまざまな部分が違う ▲違いに気がつくと、表情も違って見えてきておもしろい 上記でも述べたが、T360の大きな特徴のひとつが同じ型式でも仕様が異なる点だ。 生産当時、現場の声に素早く対応するため設計の変更・改修が加えられた。 なので、わずかな年式の間でも異なっている部分がある。 今回は1965年式と1966年式のAK250が2台あるので、比較して違いを探してみた。 ●フロント周り フロント周りを見比べてみよう。 まずはボンネットの素材が違う。 1965年式は鉄製だが、1966年式になると樹脂製になった。 それから、バンパーのナンバー取付部に注目。 1965年式では凹みにセットされるかたちで装着されているが、1966年式になると、バンパーにそのまま貼り付けたように装着されている。 さらにウインカーをよく見ると、1966年式のほうが少し大きく突起している。 また、Bピラーにも注目。 1966年式にはスリットが入っている。 これは車内換気用のものではなく、エアインテーク…つまり吸気系の取り回しがすべて異なるのである。 ●エンブレム  エンブレムのプレートは、1965年式は鋳物のエンブレムだが、1966年式ではシールになっている。 コストダウンされた部分のひとつかもしれない。 ●マフラー 1965年型は複雑に湾曲したタコ足だが、1966年型になると消音器の付いた集合管へ。 当時の排ガス規制に対応している。 ●キャブレター AK250は、1965年型はケーヒン製の4連(CVB27型)、1966年型は三国ソレックス製の2連(BSW23型)のキャブレターを採用していた。 整備性を良くする目的で4連から2連になったと思われる。 加えて整備性も向上。 キャビン後部のシートアンダー中央のフレームの一部がカットされていて、ビスを取り外せばしっかりと手が入ってキャブレターに手が届き、作業しやすくなっている。 ●インパネ周り 1965年式のステアリングはホーンリングが付いているが、1966年式では白い部分がホーンボタンとなっている。 センターに並ぶスイッチ類も違い、1966年式ではグローブボックスのフタもなくなっている。 1965年式はプッシュタイプのスイッチ(スモール、ヘッドランプ、ワイパー)が3つ横並びで付いているが、1966年式になるとプルタイプのスイッチ(ワイパー、スモール・ヘッドライトの二段階式)の2つになる。 ちなみに、ロービームとハイビームの切り替え方法も異なる。 1965年式は足踏み式で行ない、1966年式はフラッシャーレバーで切り替える。 ●ブレーキペダルゴム ペダルパッドの形状を見比べてみると、1966年式は角形に変更されている。 疲れにくく操作しやすい「オルガン式」のペダルが採用されている点にも注目したい。 オルガン式ペダルはレーシングカーに採用されていることが多いが、商用車のT360に採用されているのは、当時のF1(第1期)に由来するのかもしれない。 ●リア周り フックの数が4本から2本に減らされている。 またボディの継ぎ目の位置の違い(テールレンズに継ぎ目が掛かっているかかかっていないか)にも注目。 この他にも、骨格であるフレームの断面がTの字からロの字形状になっていたりと、改修の多さはもはや“間違い探し”レベル。 オーナーの西さんによれば「まったく異なるクルマ」だそう。 しかし、このような違いがファンにとってはこだわりにもなっている。 ■所有歴50年のオーナー ▲オーナーの西栄一さん オーナーの西栄一さんは現在69歳。 レースメカニックなどの経歴を持つベテラン整備士だ。 T360は19歳の頃に入手し、現在に至る。 これまで、オートバイからフォーミュラマシンの整備まで幅広く手掛けてきた西さん。 幼少時代にT360と“衝撃の出会い”をしてからホンダに魅せられてきた。 西さん:「私の幼少時代は高度経済成長期を迎えていました。当時は東京オリンピックの影響で、ビルの建設や道路の整備が進み、道路では2サイクルのクルマがパタパタと音をあげて行き交っていました。そんななかで突如、甲高い音を発しながら走ってきたクルマこそT360だったのです」 自動車訓練校時代には、ツインカムエンジンの教材としてT360で整備技術を学んだという西さん。 運転免許を取得してからの愛車遍歴は、1300クーペ、 N360、シビック、アコードハッチバック、バラードスポーツCR-Xを乗り継ぐなどホンダが多かったが、19歳の頃に入手したT360だけは手放さなかった。 西さん:「まるでF1やフォーミュラカーみたいに感じることがあります。ホンダサウンドがたまりません。ドライブするときはオートバイのような感覚で乗っていますね。トラックでありながら中身はスポーツカー。エンジンは気難しく、当時は農業で使うのが大変だったかもしれないですね」 ▲「懐かしの商用車コレクション」のカラーリングを手本にボディカラーを自ら塗り換えた そんな西さんにT360との出逢いを振り返ってもらった。 西さん:「実家へ帰る途中、たまたま普段は通らない道を通りました。そのとき、整備工場の車両置き場にT360があるのを見つけたんです。前からT360が欲しかった私は、再度そこへ行って持ち主を訪ねました。聞けば不動車になりかけていて、かろうじてエンジンが掛かるものの、いつ止まるかわからないような状態でした。売却後のクレームを恐れたらしく、なかなか売ってもらえなかったんです。そこで『教材にする』という条件でようやく手に入れることができました。新車に近い価格で購入しました」 購入した直後の修理はどのように行ったのだろうか。 西さん:「当時のホンダSF(サービスファクトリー)に知り合いがいたので、部品の手配などを手伝ってくれました。今は部品がなくて苦労しているところです」 ▲リアに取り付けられているプレートは、西さんがモトクロスレースをしていた時期にオートバイ用品店で見つけて購入したもの。日本語に訳してみると…確かにこのT360と西さんにふさわしいと感じる ■T360の修理について 今回はエンジンの修理をメインに、破損していた外装品等の修理・改修を行なうため、部品取り個体から使える部品を摘出。 状態を確認したうえで交換・取付が行なわれた。 西さん:「T360のエンジンを修理するにあたり、エンジン、トランスミッション、ガードフレームを脱着して各部の修理を行ないました」 実は、西さんがこの個体を所有し始めた直後から大小さまざまなトラブルに見舞われており、「持病」のように付き合ってきた故障もあったという。 そんな故障と修理の過程を一部だが紹介したい。 T360の維持がいかに大変かを理解いただけるだろう。 ●1.エンジンオイルの量が増えていた?エンジンを分解してバルブリフターを交換 エンジンオイルが増える…そんなありえないことが実際に起きていた。 原因はフューエルポンプの中にあるダイヤフラムの経年劣化により、ガソリンがオイルパンの中に流れ込んでしまったことだ。 結果、エンジンオイルの量が増えるという事態が発生していた。 さらに流れ込んだガソリンによってオイルが希釈され、潤滑性能が低下した結果、インレットバルブのリテーナーが焼きついてしまった。 そこでバルブリフターを交換するべく、エンジンを降ろして分解。 カムシャフトを取り外し、バルブリフターも取り外した。 ▲西さんのT360から降ろされたAK250E型エンジン。キャブレターとインマニは外されているが、このようにほぼ真横に近い15度に寝かせて搭載されている ▲バルブリフターを交換。上部のインレットバルブからバルブリフターを外した状態 ▲バルブリフターを取り外したオイル潤滑穴の状態。(左)正常な状態と(右)汚れやオイルが付着してしまった状態だ。バルブの上にあるオイル潤滑穴周辺にオイルや汚れがこびりつき、焼きついたことでバルブリフターの動きが悪くなった。穴の下が欠けてしまっているのも確認できる ●2.部品取り個体から摘出した純正品のバルブリフターを使用 部品取り用個体から摘出した、純正品のバルブリフターに交換している。 西さんのバルブリフターは、これまでワンオフで2回製作。 純正品はアルミ製だが、1回目は鉄で作ったところ、材質の違いによる熱膨張の変化により、オイルクリアランスが正常に保てず焼きついてしまった。 そこで2回目はオイルクリアランスを計算して加工。 このような鉄製のバルブリフターをしばらく使用していたが、材質による重量差が高回転域において悪い方に影響すると判断し、摘出した純正品にすぐ交換したという。 ▲これまで使用していたワンオフの鉄製バルブリフター ▲右のバルブリフターが部品取り用個体からの純正品。穴は熱膨張の対策と潤滑のために空けられている ●3.キャブレターのフロートが腐食しエンジンの掛かりが悪くなったので、部品取り用個体から使用  購入当時からエンジンの掛かりが悪かったという西さんのT360。 オーバーフロー(ガソリン漏れ)が起きていたので、代用品として二輪用のフロートを使用していたが、完全には直らず騙し騙し乗ってきた。 部品取り用個体から降ろしたエンジンを確認したところ、キャブレターの内部は幸いにもそれほど傷みがなく、フロートを使うことができた。 ▲部品取り用個体から摘出したフロートは綺麗に残っていた。フロートのレベルやメインジェットを点検・調整してマッチングした ●4.エンジンオイル漏れを修理 スターターモーター取付部のOリング(密封用パッキン)が劣化し、ガソリンがオイルパンの中に混入。 シールを溶かしてしまった。 部品があったので交換することができた。 ▲この写真はオイルフィルターケースだが、フチの部分にOリングが付いている。この部品は劣化すると延びてオイルが漏れてしまう ●5.シリンダーヘッド、ウォータージャケットプレートの腐食によるオーバーヒートに対応 水温が上がりすぎていることに気づいて確認してみると、ウォータージャケットスペーサーが腐食。 シリンダーヘッドへ水が流れにくくなり、オーバーヒートを起こす寸前だった。 原因は、前オーナーが冷却水の代わりに水を入れてしまったことだ。 ウォータージャケットスペーサーを自作して取り付けて対応した。 ▲T360のウォータージャケットスペーサー ▲取り外すと腐食部があらわに ●6.クラッチリターンスプリングが折れて交換 西さんがT360を購入して数カ月で折れてしまったクラッチリターンスプリング。 考えられる原因は、前オーナーが住んでいた農村地帯の悪路でクラッチを酷使していたことだ。 また、その土地は寒冷地でもあったので、気温差による湿気などによって錆が発生し強度が低下していた可能性がある。 ▲ブレーキリターンスプリングも折れる可能性ありと判断し、ストック品に交換した ●7.ブレーキオイル漏れを修理、およびリザーバータンクの交換 車検対応のため、ブレーキとクラッチのインナーキットを交換。 使用した部品はホンダS500、S600用のもの。 ブレーキ側はプライマリーカップとセカンダリーカップからオイル漏れを起こしていた。 ▲ブレーキ、クラッチとも同様のインナーキットを使用するが、クラッチは付属のチェックバルブのみ使用しない ▲ブレーキとクラッチのリザーバータンクが経年劣化で割れていたため、三菱 デリカトラック用の部品を流用して交換 ●8.フューエルラインの目詰まりにより他車種の電磁ポンプに交換 西さんのT360は、エンジンの不調により断続的に不動の時期を経験している。 不動となったある期間、販売店の展示車輌として店頭に飾られていた。 その間まったく動かさなかったので、燃料タンクに残っていたガソリンが劣化し、湿気なども影響して錆が発生していたようだ。 そんななか、販売店がT360を移動させることになり、エンジンを掛けようと添加剤やケミカル用品を使ったのが災いしたらしい。 化学反応によって溶けた不純物や錆などが、純正の機械式フューエルポンプにダメージを与えて使用不可となってしまった。 そこで西さんが電磁ポンプ化。 ホンダ N360用の電磁ポンプを流用した。 なお、フューエルメーターと燃料タンク内のユニットは各々6ボルトのものを使用しており、それを直列に接続し、12ボルトで使用している。 点検の際には各々に12ボルトをかけると故障の原因となるので、注意を要するという。 「ここが二輪メーカーらしい点ですね」と西さん。 ▲N360用を使用 ●9.オイルポンプのストレーナーの目詰まりを解消 ストレーナーが目詰まりした原因は、おもに前オーナーのオイル管理だが、受難が重なって起こったといってもいいだろう。 オーナーが西さんに変わってから良質オイルを使用するようになったことで、内部が洗浄剤によって洗い流され、汚れが詰まってしまった。 さらに、いたずら被害にも遭っている。 何者かに泥やゴミなどの異物を混入させられていたそうだ。 また、エンジンオイルの給油口に誤ってガソリンを入れられるというスタンドのミスにも遭遇している。 修理を行なう際、ストレーナーは西さんが自作した。 本来メッシュの規格は「#70」だが、調理用のザルが使われている。 ▲目詰まりや破れがあり、オイルストレーナーを自作。現在はホンダS500、S600用もリリースされており、流用できるそうだ ●10.割れたサイドウインドウの交換 あるきっかけで飛び石を食らってしまい、左側のサイドウインドウガラスが割れてしまった。 そこで部品取り個体から流用。 右ドア側のガラスが使用可能な状態だったので、ガラスホルダーを左用に差し替えたうえで左ドア側に流用した。 ▲左右のガラス形状が平面かつ対称だったため流用が可能だった ●11.スタビライザーを取付 部品取り用の個体から摘出したスタビライザーを取り付けた。 西さんの1966年式ではすでに省略されていたパーツだったが、走行安定性の向上が実感できているという。 ▲「コーナリング性能の向上、ロールの減少が実感できている」と西さん ●12.ホーン(クラクション)のホーンリングをリフレッシュ ホーンが鳴らなくなっていたので確認したところ、ホーンリングが腐食していた。 表面を研磨して対応した。 ●今後の予定は? 部品取り個体から摘出したシリンダーヘッドの動力部を使い、再調整を行なう予定だという。 ▲部品取り個体から摘出したシリンダーヘッドの動力部。分解と清掃が行われた ■【試乗ゲスト】T360を体験 ▲T360を眺めながらクルマ談義で盛り上がる西さんと平田さん 今回は試乗ゲストを迎えて、T360を体感していただいた。 ゲストの平田さんは昔からホンダが好きで、ステップバンを所有していた時期もあるそうだ。 ホンダを含めたさまざまなクルマを乗り継いできた平田さんだが、T360は初めてだという。 平田さんにT360に乗った感想を伺った。 平田さん:「T360のエンジンがあそこまで回るとは思っていませんでした。昔、EG6(ホンダ シビック)に乗らせてもらったときを思い出します。“カムに乗った回転”というか、一気に吹け上がるフィーリングに鳥肌が立ちました。まるでチューニングエンジンみたいですよね。 エンジン内部を見せていただけたのも貴重な体験でした。燃焼室は、昔の理論の半球型だったのは予想できましたが、結構トンガったカムシャフト、ダブルのバルブスプリングなど、トラックのエンジンとは思えないメカが興味をそそりました」 ■T360と今後について こうして当時とほぼ変わらない走りを取り戻しつつあるT360。 西さんはこのT360と今後どんな付き合い方をしていこうと考えているのだろうか。 西さん:「所有し始めて50年が経ちました。部品は少なくなりましたし、これまで幾度となく路上故障も経験しましたが、同じクルマに乗る仲間に恵まれ、T360に乗ってから良いことばかりだと思っております。今後もなんとか車検整備も行なって、バージョンアップもできるだけ行ないながら大事にしたいです」 ■取材後記 取材中に筆者も、わずかな時間ではあったがT360を運転させていただいた。 不慣れな右コラムMTに戸惑いつつ走った。 この右手で操作するコラムシフトもT360独特のものだ。 ▲シフトパターンがハンドルコラムカバーに刻まれている ▲T360は4MT。スピードメーターパネルに書かれたギアポジションに沿って変速する。スピードメーターのスピード表記の内側に黄線で示されているのが各ギアの守備範囲。タコメーターの代わりとして使える 試乗中にひとつ驚いたことがあった。 それはアクセルレスポンスの良さだ。 筆者の愛車はS2000。 なので最初は「ホンダ四輪の元祖だから、フィルターが掛かっているのでは?」と自分を疑ったが、やはりアクセルの開度に対してエンジンがしっかりとついてくる感覚があった。 ホンダがF1で培った技術が生かされているのかもしれない。 しかしあらためて思う。 どこまでも回っていくような甲高い「ホンダ・ミュージック」を奏でながら走るその姿に「S2000のルーツはT360にあるのだ」と。 T360との間には40年近い年式の差があるにも関わらず、エンジンのフィーリングは脈々と受け継がれているのだ…と。 貴重な体験ができた印象的な取材となった。 内燃機関のクルマにいつまで乗れるかはわからないが、T360が1台でも多く残っていくよう、いちホンダオーナーとして願わずにはいられない。 ▲筆者の愛車と並べて記念撮影 [取材協力 / 吉備旧車倶楽部][ライター・野鶴美和 / 画像・野鶴美和, 西栄一(修理部分)]

ニュージーランド・インタビュー「2Degrees」 ~ トヨタセリカを持ち込んだ、前代未聞の「駐在員」
オーナーインタビュー 2023.10.19

ニュージーランド・インタビュー「2Degrees」 ~ トヨタセリカを持ち込んだ、前代未聞の「駐在員」

「六次の隔たり」(6 Degrees of Separation)をご存知だろうか。 この地球上では、相手が誰であろうが、最大でもたった6人の「知り合い」をたどれば「つながる」ことができるという説がある。 人口が僅か500万人ほどの島国であるニュージーランドは「六次ではなく二次(2 Degrees)の国」であるというのが一般的な理解で、国内にはその名を冠した携帯キャリアが存在するほどだ。 事実「小学校が同じ」、「兄弟と知り合い」などといったことは日常茶飯事だから面白い。 そんな「みんなが知り合い」という特色を利用して、旧車オーナーや業界人を次々とご紹介いただき、「つながる」ことを実感しようというシリーズ。 それがこのインタビュー「2 Degrees」だ。 オークランド在住のtomatoです。 第3弾となる今回は、第1弾*のご夫婦を通じて知り合った方で、日本の大手金融機関からニュージーランドに派遣された、日本人駐在員である「トム(Tom)さん」をご紹介します。  (*) ●ニュージーランド・インタビュー「2Degrees」~マツダ RX-7を完全制覇したご夫婦~ https://www.qsha-oh.com/historia/article/2degrees-mazda-rx7-newzealand/ 何を聞くにしても話すにしても、クルマのこととなると目を輝かせるトムさん。 旧車ミーティングで、見ず知らずの方々とつぎつぎに仲良くなっていく姿はとても印象的です。 トムさんのクルマに対するこの真っ直ぐな情熱と社交性は、一体どこから来るのだろうかと純粋に興味を抱いていました。 彼のプライベートライフは旧車で満ち溢れています。 この記事を読み終えたあと、筆者がそうであったように、きっと多くの読者の方々が「こんな駐在員は見たことも、聞いたこともない」と思われることでしょう。 ■過去(前期): 孤独なクルマ少年  ●最初に「クルマ」に興味を持ったキッカケを教えてください トムさん(以下トム)「それがよく分からないんですよね。とにかく、見るクルマ、見るクルマの名前を覚える子だったようですよ。きょうだいのなかで唯一の男の子だったから、ミニカーとかプラモデルとかたくさん買ってもらいましたね。今考えても甘やかされて育ったと思います」 3歳のときに作った、マツダ「コスモスポーツ」のゼンマイで動くプラモデルを、今でも鮮明に覚えているそう。 父方のおじいさまが「これからはエンジニアの時代だ」と、そのプラモデル以降もたくさんのミニカーを買ってくれたのだといいます。 ミニカーといっても、1/64サイズの「トミカ」ではなく、1/43サイズの「DINKY (ディンキー)」や「CORGI (コーギー)」といった外国メーカーが中心であったこと、昭和40年代でまだまだ「日本車はこれから」という時代であったことから、輸入車が大半。 小学校に入ると、トム少年は、「タミヤ」、「オオタキ」、「ハセガワ」といった、本格的なプラモデル遊びへとステップアップしていきました。 そして、ときは昭和50年代前半(1970年代後半)、いよいよ池沢さとし氏(現池沢早人師氏)の「サーキットの狼」をきっかけとした、「スーパーカーブーム」がやって来ます。 ですが、当時の子供たちがフェラーリやランボルギーニに狂喜乱舞した時代だというのに、ずっとひとりで遊ぶ少年だったそうで、今の社交的なトムさんからはとても想像ができません。 一方の母方のおじいさまの「甘やかしぶり」も負けてはおらず、アメリカ出張のお土産では、「Cars In Profile(カーズ イン プロファイル)」というハードカバーの洋書を渡されたそう。 まだ小学校高学年だった彼が、辞書片手に読破したというのだから驚きです。 ●その洋書に関して、何か記憶に残っていることはありますか? (トム)「実は、高級2ドアクーペ特集にあったフランスの『ファセル ヴェガ』が、今でもボクのドリームカーですね。このクルマね、5リッターのクライスラーエンジンを搭載してるんですよ。この『無駄使いっぷり』や『場違い』なところが、たまらなく愛おしいんです」 ▲ファセル ヴェガHK500 中高校生になっても、彼のクルマへの興味と情熱は変わることはなかった様子。 1978年9月に発行された日本版「カー・アンド・ドライバー」の創刊号を購入したことを覚えているというのです。 さらに、カー・アンド・ドライバー誌がおもに新車を扱うのに対して、旧車を扱う1979年10月に創刊された「ザ・スクランブル・カー・マガジン」(現「カー・マガジン」)も購入していて、創刊号の付録だったホンダ ステップバンのペーパークラフトを作ったそう。 その後、両親の勧めでキリスト教系の大学に進学したトム青年は、家のクルマであった1977年式のマツダ ルーチェレガートで通学することになりました。 ところが、残念なことにその大学には自動車部がなく、そこでも孤独の日々が続いたといいます。 最終学年では、ミシガン工科大学へ留学。 アメリカのビッグ3(GM、フォード、クライスラー)のお膝元だけあって日本車は少なかったのですが、降雪地であることを理由にスバル車だけはよく見かけたそう。 そして日本に帰国。 大学を卒業した彼は、現在も在籍している大手金融機関に就職するのでした。 ●では、その金融機関に就職してから現在のように社交的になったのですね? (トム)「いいえ。まだ変わりませんね(笑)。就職してからは、社宅で整備書を片手に、独学でクルマのクラッチ交換をする奇妙な青年として映っていたと思いますよ」  ■過去(後期):人生の転機「アメリカ駐在」 1995年、ロサンゼルスへ赴任することになったトムさん。 ボーイング、ロッキードマーチン、AMDなど名だたるアメリカ大手企業を顧客とした業務を行なっていました。 驚いたことに、現地での愛車は、中古の日産 300ZX(Z31型2シーター)とメルセデスベンツ Sクラス280SE(W126)だったそう。 ●駐在員といったら、新車を購入されるのが普通ですよね? (トム)「ですね。周りは当時のベストセラー3強のホンダ アコード、トヨタ カムリ、フォード トーラス、マネージャークラスの人達は、アキュラ レジェンドとかレクサス ESとかの新車でしたからね(笑)」  しばらくして、トムさんは(今でも所有されている)オレンジ色の日産 240Zを買うことに。 そう、あの「悪魔のZ」でもおなじみのS30型です。 これを機に、Zのオーナーズクラブである「グループZ」に入るのですが、ここから彼の人生が急激に変わり始めます。 1998年は、北米各地域にあるさまざまなZカークラブが集結する祭典「Zカー コンベンション」(https://zcca.org/convention-info/)がニューメキシコ州で開催されるということで、所属クラブの企画で、トムさんの240Zを含めて7~8台のZでLAから現地に向かったそう。 その道中、なんと彼の240Zがオーバーヒートで立ち往生してしまう事態に。 しかし、ここでクラブのメンバー達に助けられ、なんとか全車揃ってイベント会場へ辿り着くというドラマチックな出来事があったのでした。 ▲Zカー コンベンション  ●これは新しい発見だったんじゃないですか?  (トム)「これまでは独学で、ひとりでの『クルマいじり』がすべてだったんで、この『共通の趣味を持つ仲間との絆や交流』というものにひどく感動しましたね」 ●その後、トムさんの人生に具体的な変化はありましたか? (トム)「2000年にはミスターKさん、つまり、故・片山豊さんと日米の『Z CARクラブ』の交流をキッカケにして、日産自動車の援助で日本の『Z CARクラブ』の有志が20数台のフェアレディZを日本から運び、LAからラスベガス(同年の『Zカー コンベンション』会場)まで乗っていく企画をやりました。また、2001年には日産自動車が全面的にバックアップするカタチで、日本でも同様の祭典『Zカー フェスタ』を始めるまでに成長しました」 ここでついに「社交家トムさん」の誕生となったのです。 ▲Zカー フェスタ ■東京都と千葉県の「2拠点生活」 アメリカから帰任したトムさんは、会社の制度により、2001年にフランスへ留学することに。 パリからクルマで1時間ほどのフォンテーヌブローという街にある、世界有数のビジネススクールINSEADにてMBA(経営学修士号)を1年で取得しました。 これでアメリカに加えて、欧州での実体験を得たことになったトムさん。 フランスから帰国した彼は、吉祥寺の実家に置いていた「人生を変えたオレンジ色の240Z」を移す必要に迫られ、2002年に千葉県に家を購入。 純粋にクルマのためでした。 そして、平日は賃貸住居を拠点とし、週末や長期休暇は別荘で暮らすという「2拠点生活」がスタートしたのです。 別荘には整備場を設け、さらには既成の4台用カーポートをDIYで、2~3年かけて9台用にまで拡張していきました。 スペースができて、いざクルマを買っていくと、分かったことがあるといいます。 自分は「ずれたクルマ」、「売れないクルマ」、「不人気なクルマ」が好きなのだと。 ●でも、「フェアレディZ」は王道のスポーツカーデザインではありませんか? (トム)「Zは目(ヘッドライト)が窪んでて変でしょ?」 なるほど。 そんな彼はある日、オークションに出てきた「スバル レオーネRX-A」が、アメリカ留学時代にミシガン州で見たスバル車の思い出と重なり、衝動買いをしてしまいます。 これが「スバル愛」が始まったキッカケとなり、別荘にあるスバル車は計8台にまでにふくれあがることに。 その結果、今ではスバル車のコレクションを介した「つながり」で、スバルの現役/OBエンジニアを中心とした方々が定期的に集まる「憩いの場」になっているそうです。 ■現在:驚きの旧車コレクション 2021年2月、トムさんはニュージーランドへ赴任しました。 おもに自動車ローンなどを事業の柱としている、ニュージーランド国内のとあるファイナンス会社を100%子会社したことに伴い、そのマネジメントチームの一員に加わったことが理由です。 記事冒頭のトヨタセリカGTVは、前述の別荘の旧車コレクションの1台で、プライベートの顔の「名刺代わりに」と赴任する際に日本から持ち込んだものですが…。 驚くことに、2023年10月執筆時点で所有する旧車が、ここニュージーランドでもすでに10台にまでにふくれあがっておりました。 まずは日系4台からご覧ください。 ▲日本車#1 トヨタ セリカGTV(1975年) ▲日本車#2 スバル レオーネGFT(1978年) ▲日本車#3 スバル ブランビー(1981年) ▲日本車#4 スバル ブランビー(1985年) そして、欧州系6台がこちらです。 ▲欧州車#1 ヒルマン インプ(1969年) ▲欧州車#2 シュコダ サブレMB1000(1969年) ▲欧州車#3 オースチン 3リッター・バンデンプラ仕様(1972年) ▲欧州車#4 ジャガー XJ6シリーズ1(1973年) ▲欧州車#5 ボクスホール シェベット(1978年) ▲欧州車#6 オースチン モンテゴ(1988年) 驚くのはこれだけではありません。 駐在を始めて1年も経たずに、なんと、あるニュージーランド人と意気投合し、旧車のレストア事業を「サイドビジネス」で立ち上げていて、今では商品化した旧車を日本へ輸出販売しているのです。 ■未来:旧車仲間との継続的「つながり」 ●今後の夢をお話いただけますか? (トム)「たくさんの旧車を介して世界中のみんなと遊ぶのが、現在進行形で楽しくてしょうがないんです。これをどうしたらサステナブル(継続的)に長く続けれらるか。それが今の夢ですね」 嬉しそうにそう語る姿から、人生を大いに豊かにしてくれた日本や世界のクルマ仲間との「つながり」をさらに発展させていくことに、トムさんが心底喜びを感じていることがひしひしと伝わってきました。 だからこそ、前述のレストアビジネスを軌道に乗せ、日本とニュージーランド両国の旧車業界を繋げる役割を果たしていきたいそうで、ニュージーランドの旧車社会を視察するツアーの企画、日本の整備学校との提携を通した旧車レストア技術の維持、旧車イベントやミーティングの開催など、やりたいことが山ほどあるのだとか。 旧車社会にとって、とても貴重な人材であるともいえるトムさんを、これからも応援していきたいです。 ■取材後記 トムさんは任期を終えれば日本へ帰国する駐在員です。 にもかかわらず次々に旧車を増車していき、さらには旧車のレストアビジネスまで立ち上げてしまうのですから、その規模やスピード感にとても驚きました。 しかしながら、インタビューを通じてわかったのは、彼にとってはそのいずれもが驚くようなことではなく、仲間との「つながり」を発展していくために必要な手段、ロジカルな行為ということでした。 事実、ニュージーランドで収集した旧車はサイドビジネスで作り上げた商流を使えば日本の別荘に難なく運搬できるのですから、理にかなっていることがわかります。 最後に、筆者が「前代未聞」だと感じたのは、目の前で起きている結果よりも、内面から彼自身を突き動かす「その一途な情熱」だったのかもしれません。  [ライター・tomato / 画像・トムさん, Dreamstime]

ニュージーランド・インタビュー「2Degrees」~アルファ ロメオに出会ってしまった整備士~
オーナーインタビュー 2023.10.04

ニュージーランド・インタビュー「2Degrees」~アルファ ロメオに出会ってしまった整備士~

「六次の隔たり」(6 Degrees of Separation)をご存知だろうか。 この地球上では、相手が誰であろうが、最大でもたった5人の「知り合い」をたどれば「つながる」ことができるという説があるほどだ。 人口が僅か500万人ほどの島国であるニュージーランドは「六次ではなく二次(2 Degrees)の国」であるというのが一般的な理解で、国内にはその名を冠した携帯キャリアが存在するほどだ。 事実「小学校が同じ」、「兄弟と知り合い」などといったことは日常茶飯事だから面白い。  そんな「みんなが知り合い」という特色を利用して、旧車オーナーや業界人を次々とご紹介いただき、「つながる」ことを実感しようというシリーズ。 それがこのインタビュー「2 Degrees」だ。 ■90マイルビーチ(ノースランド地方)より オークランド在住のtomatoです。 第2弾となる今回は、筆者がお世話になっている美容師さんからご紹介いただいた整備士の「ナオキ」さん。 実は「ナオキ」さん、美容師さんのご主人でもあるのです。ちなみにおふたりは新婚ほやほや。 オークランドCBD(中心部)からハーバーブリッジを渡った地域「ノースショア」に、愛車ロードスターを走らせ、彼の職場へ取材に向かった。 ■現在 / TODAY 彼の名字は珍しい、「大豆生田」さん。 読み方はさらに珍しく、「オオマニュウダ」と読むらしい。 栃木県に多い名字だそうだが、彼は東京都出身である。 整備士歴は、日本人メジャーリーガー的にいえば、日本・ニュージーランド通算でおおよそ10年になるそうだ。 ニュージーランドはワーキングホリデービザ制度で渡航し、(輸入中古車が、道路事情に適合するかを確認する)輸入車輌検査場で働き始めた。 だが、つまらなそうにしている彼に気づいたのか、整備知識や経験に対して、仕事内容が不十分だと察した同僚の勧めで、わずか2週間後には、現在の自動車整備工場に転職している。 ちなみに、その工場施設を折半で使用している板金会社が人手不足ということもあり、新しい挑戦として「板金工」の仕事も同時に行っている。 ▲「整備工場」と「アルファ ロメオ 146」と「ナオキさん」  彼の職場で待っていたのは、赤いアルファ ロメオ 146だった。 1998年式の5MTだという。 もちろん、1.6リッターの自然吸気4気筒エンジンは、1気筒あたり2本のスパークプラグが配置されている「ツインスパーク」だ。 ●愛車のお気に入りポイントはどこですか? 「やっぱり、ツインスパークのエンジンですね。高回転では1.6Lとは思えないトルクがあって、エンジン音も良くて、NAエンジンらしく、回して楽しいですよ。それと、マニュアル車らしい“使い切る楽しみ”ですね。あと、どの他のメーカーとも似ていない、独特な顔も気に入っています。なんか『バルタン星人』みたいでしょ?これが『ダサかっこいい』んですよ」 ●もともと、アルファ ロメオが好きだったんですか? 「日本では、スバルブルーのGRB型インプレッサ WRX STIに乗っていて“速くないクルマはクルマじゃない”って思ってましたね(笑)。アルファ ロメオを持っているカズさん(現職の社長さん)と、このクルマの前オーナーがよく話しているのをそばで聞いているうちに、これが本当に不思議なもので、カッコ良く見えてくるですよ(笑)」 ▲日本にいたときの愛車、スバル インプレッサWRX STI ナオキさんは「昔のクルマの方が、カッコイイ!」と語る。 第三者視点で見たときに、珍しい旧車を所有している人のゆったりとした「ライフスタイル」がクールと感じるそうだ。 確かに、ここオークランドでもアルファ ロメオの旧車は目立つだろうが、こんなにもクルマの趣味は変わるモノなのだろうか。 とても興味深い変化だ。 取材時も、愛車をリフトアップし、楽しそうにリアブレーキ周りで作業されていたのが印象的だった。 ■過去 / Yesterday では、そんなナオキさんの過去を聞いていこう。 「ナオキさんの愛車は、少し古めのイタリア車」と奥さまから聞いた時点で、筆者の頭のなかでは「旦那さまはタダモノではない」という予感があった。実際に取材を進めると、やはり「タダモノ」ではなかった。 ●現在の職業「クルマの整備士」につながる一番最初の記憶や出来事は何ですか? 「実は、バイクなんですよね(笑)」 なんでもナオキさんは、日本の「学校」というシステムに収まらない少年だったそうだ。 日本では「不登校」「やんちゃ」という言葉で表現されるのだろうが、いわゆる西洋の文化でいえば、才能の一種ともいえるかもしれない。 そんな訳で、一般的な人たちよりは、少しばかり早熟(?)だったナオキさん。このときに「機械をいじる」、すなわち「整備」が楽しいと感じたのがきっかけだそうだ。 ●もしかしたら、社会人1年目から整備士に?  「料理も好きだったので、高校へは行かず社会人としてシェフの仕事に就きました。でも、大検『大学入学資格検定(現在の高等学校卒業程度認定試験)』も取得したので、資格だけでもあったほうが良いと思い、シェフをしながら整備士の専門学校に通ったんです」 ところが、専門学校は彼の苦手な枠組み、「学校」なのだ。 シェフの仕事が忙しいこともあって学校を休みがちになり、「もう学校を辞めよう」と思ったそうだ。そんなとき、学生生活のなかで唯一といえる恩師「市東(シトウ)先生」が声をかけてくれたのだという。  そんな恩師をナオキさんは、親しみを込めて「シトウちゃん」と呼ぶ。 ●どんな言葉をかけてくれたか覚えていますか? 「もちろん、覚えていますよ。『お前、センスいいんだから、ちゃんとやれ』とか、『ちゃんと学校に来い。卒業だけはしなさい』とか。あと、『自動車ディーラーとかで、メカニックになるべきだ』といってくれました。学校をやめる気満々だったボクを、強引に引き留めてくれました。運だけは、特に人運だけは良いんです(笑)」 実は、就職でも感動的なストーリーがある。 この恩師の頑張りで、なんと「学校推薦」で、T社系ディーラーの採用試験を受けることができたのだ。 ところが、結果はなんと不合格。 学校長は「学校推薦で落とされるなんて、前代未聞だ」と恩師と彼を叱責したそうだ。 そして後日、そのディーラーの就職担当者、校長、恩師、そしてナオキさんの4人で会合が行われたのだが、就職担当者から驚愕の発言があった。 「後日おこなう、一般入社試験であれば、合格にします」といったのだ。 そう、問題は彼の学歴だったのだ。 大検の彼では、社内的に学校推薦枠としての合格にそぐわないというのが理由だ。 当然、それを知った彼は「ふざけるな。そんな会社こっちからごめんだ」と激昂し、その場でオファーを蹴った。 しかしこのときは、さすがに自暴自棄になったそうだ。 それでも、恩師である「シトウちゃん」から「あと、1社だけ受けてくれ」という頼みを断ることができず、I社系ディーラーへの就職が決まるのだった。 ●実際に整備の仕事を始めてみて、楽しかったですか? 「整備が好きなんで、楽しかったですよ。朝9時から働き始めて、夜10時に終われば早いって感じでしたから、過酷でしたけどね」 ●そんなに忙しかったのですか? 「ボクらは、主に物流会社のトラックを扱っていたんで、『明日の朝には走れるようにして欲しい』とか、そうい依頼が多かったんですよ。だから、他の地域にパーツを取りに行って、それをその日に組み付けるとか」 ちなみに、ゴミ収集車やバキューム車の整備は、じゃんけん制で担当者を決めるというルールだったそうで、この点からもいわゆる「ブラック企業」ではなかったのかもしれない。 ●ニュージーランドに来ることを決めたのはなぜですか?そして、いつですか? 「18歳くらいから『日本から出たい』って思うようになりましたね。何の計画もなく、周りにも『オレは海外で、ゆったり暮らす』っていってましたから(笑)」  その思いの根本は、生まれつきの「冒険魂」なのかもしれない。それとも、学校をはじめとした右向け右の「枠組み」が違うと感じたからなのだろうか。 「20歳以降は、海外のヒリヒリ感がたまらなくて、毎年のように10日間ぐらいバックパッカー旅行をしていました。フィリピン、台湾、タイ、バングラディッシュ、インドって感じで。英語は、YESとNOくらいしか分かりませんでしたから、最初に訪れたフィリピンで現地の洗礼を受けました(笑)」 「海外移住を決心したのは、インドのガンジス川に入ったときです。『ああ、会社辞めて、海外に行こう』って。インド行ったことあります?うまく表現できないんですけど、インドの人々の活気や生命感がとても印象的なんです」  ナオキさんは、インドから帰国後、たった2週間で会社を辞め、単身フィジー留学を半年間経て、ニュージーランドに26歳で渡ったそうだ。 ▲ガンジス川での沐浴 ■将来 / Tomorrow ●今後の目標や夢を聞かせてください。 「近いところでは、アルファ ロメオを塗装したいですね。でも、見積もりがNZ$4,000(≒35万円)で、腰が引けてます(笑)。あと、エアコンを直したくても、そもそもパーツが必要なんですけど、データベース上は品番が2種類存在していて、インパネ外さないと、そのどっちかも分からなくて(苦笑)」 苦労を楽しそうに語る、旧車好きに多い「ヘンタイ」(最上級の褒め言葉)な彼は、とにかくクルマという箱が、そしてエンジンが大好きなのだという。 いずれ旧車のレストアにも挑戦してみたいそうだ。 「人生という意味では、現状維持で毎日楽しく、好きな整備をしつつ、暮らせれば良いと思っています。今は、人生の分岐点じゃないと感じていて、例えば、『うちに来ない?』って、転職などの分岐点が訪れたときに、楽しいか、楽しくないかで決めれば良いと。運だけは、良いんです(笑)」 上下関係や年功序列などが希薄で、家族やプライベートの時間が優先されるニュージーランドの労働環境が、ナオキさんにはとても合っているようだ。 そんな充実した彼の顔を見ていると、改めて、人生は「行動力」で差が出ると思わざるを得ない。 彼の「行動力」は、飛び抜けているといって良いだろう。 それは右向け右には従わない、高校には進学せずシェフの道を選んだ「行動力」、自分には海外が合うはずと思い、バックパッカーを続け、思い立ったらすぐに日本を飛び出す「行動力」であったりだ。 彼は、終始「運だけはあるんです」と謙遜するが、そう思うことでポジティブな思考、ポジティブな仲間を得て、幸せな人生を歩めているのではなかろうか。 30歳になったばかりで、まだまだ若いナオキさんのこれからがとても楽しみだ。 いずれ、彼の愛車「アルファ ロメオ 146」のその後を報告できれば幸いだ。 美容師として活躍する奥さまと末永くお幸せに!  [ライター・撮影 / tomato、一部画像ナオキさん提供]

ニュージーランド・インタビュー「2Degrees」~ マツダ RX-7を完全制覇したご夫婦 ~
オーナーインタビュー 2023.09.30

ニュージーランド・インタビュー「2Degrees」~ マツダ RX-7を完全制覇したご夫婦 ~

「六次の隔たり(6 Degrees of Separation)」をご存知だろうか。 この地球上では、相手が誰であろうが、最大でも、たった5人の「知り合い」をたどれば、「つながる」ことができるという説だ。 人口が僅か500万人ほどの島国ニュージーランドは、六次ではなく二次(2 Degrees)の国であるというのが一般的な理解で、国内にはその名を冠した携帯キャリアが存在するほどだ。 実際、「小学校が同じ」、「兄弟と知り合い」などといったことは、日常茶飯事だから面白い。 そんな「みんなが知り合い」という特色を利用して、旧車オーナーや業界人を次々とご紹介いただき、「つながる」ことを実感しようというシリーズ。 それがこのインタビュー「2 Degrees」だ。 記念すべき「第1弾」となる今回は、筆者tomatoの知り合いである、オークランド在住のKendall(ケンダル)夫妻をご紹介したい。 ご夫妻との出会いは、2018年12月にさかのぼる。 場所はAuckland CBD(Central Business Districtの略で、要は中心部という意味)から、70㎞ほど南下した先にあるHampton Downs(ハンプトンダウンズ)サーキットだ。 その日は、ドリフトレーサー「Mad Mike(マッドマイク)」主催のイベントが行われており、日本から星野仙治氏が持ち込んだ「Mazda 767B (202号車)」が、誰もが酔いしれる「4ローターサウンド」を奏でて周回し、大盛況だった。 そこで、お互いが話す日本語が聞こえたのが出会いのきっかけだ。 旦那さまのStephen(スティーブン)さんは、キーウィ(ニュージーランド人の通称)だが、実は奥さまのMichikoさんは日本人なのだ。 ニュージーランド生まれのお嬢さまも、日本語が堪能なバイリンガルで驚かされたのを記憶している。 今回、「インタビュー」を快く受けてくださったので、ご自宅に話を伺いにいった。 ちなみに、ふたりの会話は、ミチコさんが日本語で、スティーブンが英語で話すという不思議なもので毎回新鮮だ。 正直、筆者は、ふたりと話すと少し混乱するのだが… (笑)。 ■TODAY 2023年7月執筆時点で、ケンダルご夫妻は、なんと3世代全てのRX-7を所有(完全制覇)している。 ・SA22C(マッハグリーン・メタリック)・FC3S(トルネードシルバー・メタリック)・FD3S(ヴィンテージ・レッド) ナンバーなしの車両2台(下記)も含めれば5台のRX-7だ。 ・サーキット走行用のFD3S(シルバーストーン・メタリック)・保管中のSA22Cターボ(ドーバー・ホワイト) さらに、RX-7以外の自家用車も含めれば、計8台も所有されている。 特にマッハグリーンのSAは、自らが「フルレストア」した作品。 その出来は、工場のラインを出たばかりの新車レベルで、まさに正真正銘の「ヘンタイ(もちろん良い意味で)」だ。 なお、これは最上級の誉め言葉であるので、誤解のないようにしていただきたい。 ▲StephenさんとMichikoさん ■YESTERDAY まずは、そんな「現在」に至るまでの道のり、「過去」をお聞きしよう。 「Kendall」というファミリーネームをネットで調べると、イングランドが起源の名のようだが、スティーブンさんによると、このケンダル家は、むしろアイルランドの血が濃く、ニュージーランドには約150年ほど前に先祖が渡ったそうだ。 スティーブンさんは、4人兄妹の次男として1968年に生まれた。 小学生になる頃までは、タウランガやプケコーヒにあった近郊のサーキットで、父のBrian(ブライアン)氏が草レースをやっていた影響から、ガソリンやオイルの匂いがする家で育った。 レースといっても、Datsun 1600 Deluxe(510 ブルーバード)やDatsun 180B(610 ブルーバード)など、ケンダル家にある自家用車にレース用のシートベルト、ヘルメット、消火器を装備しただけというから、本当に羨ましい時代だ。 ▲スティーブンさんの父親であるブライアン氏と、Datsun 180B(610 ブルーバード) その後、より家族との時間を優先することになっても、家族でレース観戦に行くこと、クルマ雑誌が家に置いてあることが日常の風景だった。 ちなみにブライアン氏は、当時人気が高く、入手が困難であったイギリス車をあきらめ、Datsunに手を出したわけだが、その信頼性に感銘を受け、R30からR35まで渡り歩くなど、無類のNissanスカイライン党になっていく。 そんな環境で育ったスティーブンさんは、新聞/広告配達やスーパーマーケットでアルバイトし、1985年(16歳)に自動車運転免許を取得するやいなや、1972年式のDatsun 1600SSSを、当時の2,000 NZドルで購入した。 その1,600 ccのエンジンをリビルドするなどし、自動車知識をさらに養っていく。 ▲若かりし頃のスティーブンさんとDatsun 1600SSS(510 ブルーバード) 彼は技術系大学の夜間コースに通いつつ、自動車の板金工としてのキャリアをスタートさせた。 社会人生活も5年ほど経ったころ、彼は仕事を辞め、友人達と半年間のヨーロッパ旅行に出るのだった。 ●そのヨーロッパ旅行は、価値観などに何か影響を与えましたか? (スティーブン)「うん、そうだね。海外で、『その日暮らし』という形ではなくて、『地に足のついた暮らし』をしてみたいと思うようになったんだ。この経験のおかげで、日本に行くことになるんだ」 ニュージーランドに戻ったスティーブンさんは板金工に復職し、その2年後に広島の自動車整備会社からの仕事のオファーを掴んだ。 (スティーブン)「不安はなかったよ。仕事は1年契約(ワーキングホリデー)だったし、往復の航空券と住む場所が与えられたから、『最悪でもタダで日本旅行できる』と思ったよ(笑)」 1993年、スティーブンさんは広島で暮らし始める。 勤務先は、Hertzレンタカーも運営するなど、広島の業界内では名の知れた大きな会社だったようだ。 会社には、同じように採用された3人のニュージーランド人も一緒だったので、ご両親も安心だっただろう。 ●日本の第一印象はどうでしたか? (スティーブン)「もっと近代的なだけの国だと思っていたけど、歴史の浅いニュージーランドでは見ることのない、歴史的なものと、モダンなものが両方あることにとても驚いたよ」 ■人生の伴侶、Michikoさんとの出会い ミチコさんとの出会いは、ニュージーランドではなく、彼女の故郷、日本の広島だ。 具体的には、彼女が当時通学していた英会話学校の先生に連れて行かれた、市内中心部の流川町にある「外国人(Expats)が通うバー」だったそうだ。 当時の彼女にとって、英語は単なる「海外旅行の手段」であり、クルマはホンダ グランドシビックを所有はしていたが「移動の手段」でしかなかった。 なのに、翌年の94年にはゴールインしてしまうのだから、「愛の力」は本当に偉大だ。 ■ロータリースポーツ「MAZDA RX-7」との出会い 当時、傘下のHertzレンタカー店には、ブリリアント・ブラックのFD3S型のRX-7があった。 しかも、マニュアルトランスミッションだ。 同じ傘下なのだから、お客さまがぶつけるたびに、板金工のスティーブンさんに回ってくるというサイクルだったのだ。 そして、修理が済むと、試運転(?)も兼ねて、山陽自動車道の広島東ICと広島ICの間にある「安芸トンネル」を爆走するのが、楽しみで仕方がなかったそうだ。 社用車のマツダ・ボンゴを「普段の足」としているなかで、入庫するほとんどは、普通のクルマなわけだから、そんな若者がRX-7とロータリーエンジンの虜にならないはずはなかった。 この時点で「人生詰んでいた」のかもしれない。 ■母国「ニュージーランド」へ 21世紀の足音が近づくつれ、スティーブンさんは母国ニュージーランドへの帰国を望むようになった。 日本の(特に自動車整備の)労働環境が苦痛になってきたのだ。 また、板金工というスペシャリストとしても、外国人としてもキャリアアップがまだまだ難しい時代でもあったのだろう。 そんな彼の望みを受け、ミチコさんはニュージーランドへの永住を決意する。 簡単なことではなかっただろう。 そして西暦2000年に、ふたりは、冒頭のヴィンテージレッドとシルバーストーンの2台のFD3S型 RX-7、そして奥さまのマツダ ランティスとともに移住する。 板金工をする傍ら、シルバーストーンのFDで草レースを楽しむという生活が始まったそうだ。 ▲スティーブンさんのサーキット走行 ●全世代のRX-7を揃える計画を立てたのは、いつごろですか? (スティーブン)「2015年頃かな。年齢的なこともあって、プライベートプロジェクトとして、レストアをしてみたいと思ったんだ。本当はRX-2とかRX-3が欲しかったんだけど、少し遅かったみたいで、すでに価格が高騰し始めていて、手が出せないと判断したよ。すでにFDは持っていた訳だから、SAとFCを入手して、RX-7を全世代揃えることに方針転換したんだ」 その後、ふたりは日本在住のオーストラリア人の仲介により、日本のオークションで、予算内のSA22型(フルノーマル)を2年程探すのだが、SAもまたどんどん高価になっていった。 狙いをより安価なFC3S型に切り替え始めた2017年、オートマということもあり、程度極上の個体を日本のオークションで落札することに成功した。 が、そのわずか1週間後に、手頃なSA22型もオークションに出品されたのだ。 (スティーブン)「そのSA22型は、ボディの所々にサビがあるなど保存状態に問題はあったけど、腐食で穴があいているなどということはなく、各コンポーネントもオリジナルを保っていたから、『買い』だと思ったよ。きっと日本人なら手を出さないだろうけどね」 そう、その2台が、現在のSA22型(マッハグリーン)とFC3S型(トルネードシルバー)だ。 (ミチコ)「SAは、最初は、少しずつキレイにしながら使って、いろいろガタが出始めたら、一気に修復すれば良いと思っていたんだけど、『どうせ、何年後かにそうなるなら』って、スティーブンが2019年に、2年プロジェクトの“フル”レストアを決意したんです」 ●自分にフルレストアができると思った? 不安はなかった?  (スティーブン)「スキルはあったからね。あとは、行動に移すだけだったよ。幸い、レストアを本格的にやっている親子とも知り合いになれたから、『やってやろう』と思った」 ■写真で見るフルレストア(Full Restoration) ▲レストア開始時のSA22型 ▲車体のサビ ▲エグゾーストパイプのサビ ▲サビ除去の「どぶ漬け」工程 ▲分解 → 研磨 → 加工 → 保管 ▲レストア前の12Aロータリーエンジン ▲レストア後の12Aロータリーエンジン ▲本格的な塗装(スティーブンの職場の塗装ブース) ▲下回りの完成 ▲内装トリムの塗装と乾燥 ▲シート生地の修復 ▲シート組付け後 ▲(レストア前)「Limited」と「マツダオート茨城」 ▲(レストア後)「Limited」と「マツダオート茨城」 ●何が一番大変でしたか? (スティーブン)「ワンオーナーだったから、モノは揃っていたんだ。交換したのは、テールライト、ウェザーストリップとかのラバー類、ホース類、サスペンションのブッシュ類とか、どうしても経年劣化する部分がほとんどだった。あとは、ラジエーターとか、1つ1つのコンポーネントを『外して』→『分解して』→『ポリッシュして』→『脇に置いておく』というプロセスの繰り返しでしかなかったから、その数は凄いけど、大変ということは…」 レストア作業の写真を数枚見せてもらっただけでも、筆者には「途方に暮れる作業」に思え…改めて、「知識と経験は、人間をどんなところへも、連れて行っていけるのだ」と心底感じた。 (スティーブン)「あっ、一番大変だったのは、エンジンルーム内とかに貼るステッカーの修復/複製かな。それだけは、やったことなかったからね(笑)」 (ミチコ)「私が全部やりました!」 ▲複製した各ステッカー(ほんの一部) ■通称『ケロちゃん』 ●ずばり、レストアの魅力は? (スティーブン)「2021年2月のEllerslie Car Show(エラズリー カーショー)*に展示できたんだ。そういったイベントに行く度に、人だかりになったりするんだけど、それが最高のご褒美であり、『Rewarding(やりがい)』だよ」 (ミチコ)「この『ケロちゃん』(緑色のカエル)が行くところ行くところ、すぐに人が集まって来て、いろいろな人に声をかけられるんですよ。本当は、その翌年のエラズリー カーショー*では、コンクール(競技会)への参加を予定していたんですけどね。コロナ禍で中止になってしまって、スティーブンは『もう待てない』って、『普段使い』し始めちゃったんです(笑)」 ▲2021 エラズリー カーショー* (*)「Ellerslie Car Show」に関しては、すでに記事を公開しているので、そちらをご覧いただきたい。https://www.qsha-oh.com/historia/article/ellerslie-car-show-2023/ ●やっぱり、レストアはイギリスの「バックヤードビルド」文化の影響なのでしょうか? (スティーブン)「それもあるだろうけど、過去の閉鎖的な経済政策も影響していると思う。そもそも多くの国から物理的に離れているから、品物が少なかったし、90年代まで、クルマなどさまざまな外国製品に対して高い関税を課していたからね。『まずは自分たちで直す、DIYする』という社会だったんだ」 ■TOMORROW ふたりの「明日」、今後の計画について尋ねてみたところ、別途所有されている「SA22C型 12Aターボ」のフルレストアを2年以内に開始したいそうだ。 (スティーブン)「本当は、レストア自体を生業にして、培った知識を若い世代に遺せたら、最高なんだけどね。あくまでも、自由に使えるお金がある裕福な人が、思い立ったそのタイミングで発生する業務だからね。ビジネスとしては成立しにくいんだよね」 残念なことに、その若い世代の筆頭と成り得るケンダル家の「お嬢さま」は、クルマへの興味がまったくなく、今はファッションとK-POPに夢中だそうだ。 でもしかし、筆者は「まだ分からない」と思う。 だって、ミチコさんがそうだったじゃないか。 なにかのタイミングで、クルマ愛が化学反応的に表面化する日もあるはずだ。 クルマのイベントに、いつも仲良く夫婦2人で参加される姿は、「微笑ましく」、そして「羨ましい」。 ぜひ、いつまでもお幸せに! [画像提供/Kendallご夫妻、 ライター・撮影/tomato]

ドイツのHナンバー登録済み!1982年式メルセデス・ベンツ240D(W123)の魅力をオーナーに聞く
オーナーインタビュー 2023.09.26

ドイツのHナンバー登録済み!1982年式メルセデス・ベンツ240D(W123)の魅力をオーナーに聞く

今回、オールドタイマーを所有する、とあるドイツ人の男性にインタビューをお願いしたところ、個人的にも大変興味深いお話を聞くことができました。 また、インタビューのみならず、実際に運転するという貴重な体験まで! 筆者の拙い運転体験記にも目を通していただけると幸いです。 今回インタビューを受けていただいたのは、ドイツ・ホルツミンデンにお住いで、1982年式メルセデス・ベンツ240D(W123)をお持ちのヴィルヘルムさん。 とても親切、気さくな方で、何をリクエストしてもすべて快く引き受けてくださいました。 ■人生初のオールドタイマー運転体験 クルマの第一印象は、昔の本や(ドイツの)映画・ドラマでよく見るような典型的なヘッドライトを持つ、良い意味で「古いメルセデス!」といったものでした。 しかし間近で見てみると、外観だけでなく、エンジンルームやシートまで全体的に綺麗な状態が保たれており、とても大切に乗られていることがよく伝わってきます。 ヴィルヘルムさんとクルマの話で盛り上がっていると、思いがけないことに240Dを運転してみないか、とのお話が。 もう10年以上はマニュアル車を運転していないため、若干の不安はありましたが、それよりもオールドタイマーを運転できる大変貴重なチャンスだと思い、運転させていただくことになりました。 筆者が過去に運転したことがある一番古いクルマを思い出してみても、もちろん自分より年上のクルマを運転した経験などありません。 マニュアル操作もすっかりぎこちなかったのですが、いざ運転してみるとエンストすることもなく、とても素直に動いてくれました。 ハンドルが重いということをいわれていましたが、そこまで気にならず、シフトチェンジも軽快。 途中からまるで、クルマに運転を教えてもらっているような感覚になっていて、運転にある程度慣れてくると、古さなどはまったく感じず、違和感なく運転することができました。 乗り心地は、一言で言うと快適そのもの。 シートは柔らかすぎず、しかしクッション性はしっかりしています。 一般道を走る速度帯では不快な揺れや振動もありません。 今のクルマに比べると遮音性は高くないので、ディーゼルエンジンの大きな音はそれなりに車内にも響き渡りますが、個人的にはそれも味があって良いなといった感想です。 ルートは主に山道でしたが、けっこうな勾配も2速あたりで力強く登って行ってくれました。 一般道での走行では3速でじゅうぶんといった印象。 とても優雅に走ってくれて、ギアチェンジの動作も自然とゆっくりやりたくなるような、時間を忘れてゆったり運転するのが似合うクルマだなと思いました。 ■取材車輌スペック いただいた資料を基に、ヴィルヘルムさんが所有する240Dのスペックについても紹介しておきます。 最高速度:138km/h加速性能(0~100km/h):22秒燃費:9,3L/100kmホイールベース:2795mm全長:4725mm全幅:1786mm全高:1438mm最小回転半径:11.25m車輌重量:1395kg最大積載量:520kg最大牽引能力(ブレーキあり):1500kg最大牽引能力(ブレーキなし):740kgエンジン:4ストロークディーゼルエンジン4気筒最高出力:72PS(4400/min)最大トルク:137Nm(2400/min)タンク容量:65L ■ヴィルヘルムさんにインタビュー ●いまお乗りのオールドタイマーのモデルについて教えてください メルセデス・ベンツ 240Dという1982年式のモデルです。 ●オールドタイマーに乗り始めたきっかけを教えてください 元々クルマは好きなのですが、このクルマに乗り始めたのは、義理の父から相続したことがきっかけです。 ●オールドタイマーの良さとは、どのようなところですか? 何かが故障しても、すべて自分で直せてしまうところですね。複雑な電装部品などが多くないので、何をするにしても自分で対処できてしまいます。そこがまた良いところだと思います。ただし、Hナンバー登録をしているので、リペアに使用する部品などには注意を払わなければなりません。(※Hナンバー登録、または維持するためには、修理もすべてオリジナルの部品でおこなわなければなりません) ●どのくらいの頻度で乗っているのですか? 基本的には、天気の良いときだけ乗るようにしています。スタッドレスタイヤは持っていないので、冬は乗りません。だいたい、5月から10月のシーズンですね。また、夜に乗ることも少ないです。ヘッドライトが頼りないので(笑)。 ●故障はありますか? 故障はまったくないです。一度だけ燃料メーターの不具合がありましたが、それ以外に走行に支障をきたすような故障はなく、燃料メーターの交換以外で修理を施したことは一度もありません。 ●年間の維持費について教えてください Hナンバー登録なので、税金が190ユーロ、保険が206ユーロです。保険は年間6000キロまでという走行距離の制限がありますが、先ほどいったように、基本的には天気の良い日にしか乗らないので、じゅうぶんです。日常的に使う人は、保険料はもう少し高くなるのではないでしょうか。 ●ドイツではたくさんのオールドタイマーが走っていますが、専門の修理工場やサービスが充実しているのですか? 専門工場はあるにはあるのですが、そこまで多くはないと思います。私が知っている限りでは、シュトゥットガルトにメルセデス・ベンツのオールドタイマー専門の修理工場があります。もし何か必要であれば、そこに相談をして部品の調達などを任せることになるかと思います。(後述するような)オールドタイマー乗りが集まるクラブで修理工場などを紹介してもらうことも可能かと思います。一般的なディーラーや工場では、修理や部品の調達はできません。 ●オールドタイマー乗りのためのクラブ・愛好会などはありますか? あります。場合によっては登録手続きなどが必要になるかと思います。私は特に入っていません。 ●オールドタイマー乗りにとって、もっと改善してほしいことはありますか? 特にありませんが、強いていうなら、周囲のドライバーにはもう少し思いやりを持っていただけるとうれしいですね(笑)。 ●オールドタイマーに乗るメリットについて教えてください とにかく運転が楽しいことです。天気の良い日にこのクルマを運転していると、本当にすべてのストレスが吹き飛びますよ。 ●逆に、オールドタイマーに乗るデメリットがあれば教えてください まったくありません。あえて挙げるならば、パワステがないということと、新しい世代のクルマに比べると、動作が重かったり鈍かったりすることくらいでしょうか。 ●オールドタイマーを維持するうえで、一番大変だと感じることはなんですか? これは間違いなく、万が一故障したときの部品の調達ではないでしょうか。 ●ドイツでオールドタイマーに乗っていて、肩身が狭いと感じることはありますか?あるとすれば、どのようなところですか? オールドタイマー全般という観点からすれば、排気ガスの関係から、環境保護エリアやディーゼル車乗り入れ禁止エリアでは走行できないということでしょうか。ただし、オールドタイマーであってもHナンバーさえ取得していれば、そのようなエリアでも走行することが許されています。ですので、Hナンバーを取得したオールドタイマーにとって肩身が狭いと感じることやデメリットは、まったくと言って良いほどありませんよ。 ●今乗っているオールドタイマーの一番のお気に入りポイントはなんですか? ずばり、運転が楽しいことです!それに尽きます。 ●今乗っているオールドタイマーを一言で表すと? 一言で表現するのは少し難しいですが、「清楚」でしょうか。しっかり自分で手入れをして、愛情を注いできれいに保ち続けると、クルマもそれに応えるかのように素晴らしい性能を保ち続けてくれるのです。 ■おわりに お話を聞くなかで、ヴィルヘルムさんが240Dをいかに大切に、そしていかに楽しく乗り続けているかということがよく伝わってきました。 以前記事に書いた、ドイツにおけるオールドタイマー事情の情報に加え、実際にオーナーの声を聞くことで、ドイツではオールドタイマーが文化遺産としてしっかり守られていると確信することができました。 ●果たしてドイツは旧車の楽園なのか?この国の旧車の定義とはhttps://www.qsha-oh.com/historia/article/auto-old-timer-germany/ それは特に、インタビュー中の話にもあった「Hナンバー登録であれば環境保護エリアでも走って良い」という場面にも顕著に表れているのではないでしょうか。 というのも、とりわけ厳しいエリアでは環境汚染物質クラスがユーロ5以下のクルマは走行禁止とされているなど、場合によっては比較的新しい世代のクルマであっても走行できないことがあるにもかかわらず、Hナンバーのオールドタイマーはそのようなエリアでも走れてしまうのです。 すなわち、そのような地域に暮らす人でも、オールドタイマーに乗り続けることができるということでもあります。 「古いクルマだから環境に悪い」「環境に悪いから排除するべき」と淘汰するのではなく、クルマを一つの歴史として、一つの遺産として大切にする、そして後世に残そうとする動きが国や自治体レベルでも行われていることに、羨ましささえ感じられました。 しかも、それが個人単位ででき、多くの人がオールドタイマーを大切に維持し続けていることからも、ドイツの自動車大国としての強さを改めて認識することができました。 さいごに、今回インタビューを受けていただいたのみならず、マニュアル車の運転をすっかり忘れてしまっていた筆者に、大切なクルマを快く運転させていただいたヴィルヘルムさんに、心から感謝を申し上げます。 [ライター・画像 / Shima]

初の愛車は、高校時代に手にした“R32 スカイラインGT-R”
オーナーインタビュー 2023.09.15

初の愛車は、高校時代に手にした“R32 スカイラインGT-R”

2023年現在、100年に一度の転換期といわれている。 自動運転に関する技術革新が日々行われ、新型車には電気自動車も多くなってきた。 そんな環境のなか、旧車と呼ばれる年代のクルマを、新たな愛車として選ぶ方も多くいる。 今回は“ちょっとした”一言がきっかけで「R32 スカイライン GT-R」が初の愛車となったオーナーにお話をうかがった。 1.出会いは突然 最初の愛車がGT-Rに!?しかし本音は・・・ 前回、新たに日産N15パルサー VZ-Rを愛車にした、お父様の話を紹介した。 ●教えて旧車オーナーさん!今"N15 パルサー VZ-R"を買ったワケhttps://www.qsha-oh.com/historia/article/nissan-family-pulsar-vzr-n15/ 今回の主役は、R32 スカイラインGT-Rにお乗りになられている息子さんだ。 手に入れた経緯は、なかなかに興味深いものだった。 「このGT-Rは元々、父の知人が所有していたクルマだったんです。3年半程、寝かせていたクルマを手放すということで、紹介されました」 最初の愛車がGT-Rとは、とても羨ましい話ではあるが、実は本音は違ったようで・・・ 「実は、当初欲しかったクルマはS15シルビア オーテックバージョンでした。中学生の頃、近所の中古車屋さんに置いてあった売り物を見に行ったりしていました(笑)」 「当時ガラケーに、シルビア オーテックバージョンの中古車情報の程度や金額をメモするほど憧れて、恋枯れていました」 S15シルビア、そのなかでもメーカーがチューニングを施した、NAエンジン(SR20DE)を搭載するオーテックバージョン。 中学生のころに、S15シルビア オーテックバージョンへ憧れを抱くとは、なかなかに通な選択だ。 これも、日産フリークなお父様の影響を受けた結果なのかもしれない(笑)。 2.GT-Rの縁談に乗り気になれない、クルマ好きならではの“理由” その当時を振り返り、お父様から意外な言葉が出てきた。 「息子に最初この話をしたとき、そんなに乗り気ではなかったのは、すぐにわかりました」 「私がすでに同型のGT-Rに乗っているので、同じクルマに乗るのが嫌なのかな?と思っていました」 予想外の反応をされた息子さん。 ではその当時、実際にはどう思っていたのだろうか? 「たしかに、父親がすでに同じGT-Rに乗っていることも意識としてはありました。ただそれよりも、当時はGT-Rって『最終地点』なイメージを持っていたんです」 この『最終地点』が意味することは、クルマ好きならすぐに理解できることだろう。 世界に目をやれば、超ド級なスーパーカーは多くある。 ただ、日産フリークな家庭で育ったオーナーにとって『GT-R』は、日産のスポーツカーのなかでも特別な存在であることはよく分かる。 「GT-Rに乗っている人は、段階を経て到達するイメージがありました。それこそ、シルビアなどに乗って練習して、父親のようにステップアップしていってGT-Rと考えていました」 お父様がDR30スカイラインで腕を磨き、R32スカイラインGT-Rにステップアップされたのを間近で見て育っただけに、その思いが強くなったのだと想像に容易い。 「いきなりGT-Rに乗っていいのか?という思いがあるのと、“シルビアが好きだから”という理由で断りました」 ずっとモータースポーツを観戦していただけに、GT-Rの凄さを理解していたことと、シルビアへの思いからの考えだったようだ。 3.父親からの思いがけないアドバイスがきっかけに 息子さんの思いを聞いたうえで、お父様から現実的なアドバイスがあったそうだ。 「シルビアからステップアップしてGT-Rにいきたくても、いざGT-Rに乗りたくなったときに買える保証はないんだぞ」 それは、なかなかにストレートなアドバイスだった。 お話をうかがっているとき、筆者は思わず笑ってしまった。 ただ、この言葉がきっかけとなり、現実的に自分の状況を踏まえ、改めて考えたそうだ。 当時でもS15シルビアは人気車であり、生産終了から日が浅く、程度の良いものは新車同等、もしくはそれ以上の価格だった。 対するR32スカイラインは、すでに生産終了から年数が経過した“旧車”となっていた。 年式を考えると流通量の減少、流通しているなかから良い程度を求めた場合、状況は厳しくなる一方と考えたそうだ。 そこからGT-Rを初の愛車として迎え入れることを決意したのをきっかけに、一気にモチベーションが上がることとなった。 教習所に通いながらアルバイトに励み、修理代を捻出していったとのこと。 このお話を聞いて、どこかの誰かと同じような境遇だと、思ってしまった。 「以前、初の愛車を手に入れた経緯をお聞きして、うちの息子と境遇が似ていると思いました(笑)」 と、筆者を見るお父様の表情は、満面の笑みであった(笑)。 4.初の愛車は課題が豊富 実際に手に入れたGT-Rはどうだったのだろうか? 「やはり3年半寝かしていたクルマということもあり、最初、エンジンをかける前に燃料系統を確認しました。案の定、ガソリンが腐っていました。さらにその腐り方が想像以上だったため、燃料ポンプを新品に、燃料タンクを中古の物に交換したんです」 ガソリンも食品と同じく、古くなると腐ってしまうのだ。 長期間動かしていない場合、注意が必要な点でもある。 「エンジンをかけられる段階まできて、いざエンジンをかけたものの、アイドリング不調で、まだまともに走れる状態ではありませんでした。そこで、点火系など順を追ってチェックしました。幸いなことに父親のGT-Rと同じ年式だったので、部品を入れ替えてチェックすることで、ダメな部品のトラブルシューティングができました」 修理と併せ、予防整備もおこなったとのこと。 交換した際、元々の部品は、お互いのクルマに使えるストックとなっているそうだ。 外観からも、チューニングを施しているのが見て分かった。 修理をする際に、併せておこなったのだろうか? 「今ついている社外のチューニングパーツは、前オーナー時代に交換されたものがほとんどです。ワンオーナーだったため、弄っている個所も分かっていました。あとからカスタムする必要が無い状態だったのは、結果的に良かった点ですね」 今回購入されたのは、ワンオーナーかつ、ご本人から直接譲り受けたので、詳細が分かっていたのは大きなアドバンテージだ。 5.素性を見極めて選んでもらいたい! これから旧車を手に入れようと思っている方へのアドバイスをうかがった。 「この年代のクルマを手にするなら、可能な限り素性の分かる車輌を選ぶことをお勧めしますね」 それは、お乗りのGT-Rで得た経験も背景にあるのかもしれない。 「私自身もそうだったのですが、やはり若い時って『エアロが付いていてカッコイイな!』『エンジン周りも弄ってあって良いな!!』と思ってしまうんですよね(笑)」 その気持ちは非常によく分かる。 どうしても“ノーマルとは違う”ことに憧れを抱いてしまうものだ。 「わからない弄り方をされていると、何か不具合が起きた時に原因が掴みづらくなってしまうんですよね」 実は筆者にも経験がある。 自身の愛車を手にしたときも、アイドリング不調が出ていた。 原因は、過去のオーナーが取り付けた社外部品の不調であった。 すでにカスタムされていることは魅力的に映るだろう。 しかし、長い目で見た際には、ノーマルの方が心配は減るものだ。 「特にスポーツカーは、ノーマルを探すのが難しいと思います。なので、ある程度詳しい人と一緒に現車を見に行くのが一番かと思いますね」 欲しいクルマを目の前にすると、誰もが正常な判断はできなくなる。 中立な、落ち着いた判断と目利きができる人に同行してもらうのは、大事なことだろう。 6.総括  いつかより今!時には踏み出す勢いが必要! 今回、お話をうかがい感じたことは、踏み出す勢いが大切だということ。 “いつか、あのクルマに乗りたい” そう思うことは、クルマ好きにとっては、日常的なことと思う。 今回お話をうかがっオーナーのように、キャリアアップして乗ることを目標にするクルマもあると思う。 ただ、タイミングが許すならば、一気に目標へ到達してしまうのも、旧車に乗るには必要な判断要素かもしれない。 今しか乗れない、今だから乗れる。 このことを考えて、旧車に乗るのもアリと感じた。 [ライター・画像 / お杉]

教えて旧車オーナーさん!今"N15 パルサー VZ-R"を買ったワケ
オーナーインタビュー 2023.08.11

教えて旧車オーナーさん!今"N15 パルサー VZ-R"を買ったワケ

2023年現在、100年に一度の転換期といわれている。 自動運転が開発され、新型車には電気自動車も多くなってきた。 そんな環境のなか、旧車と呼ばれる年代のクルマを、新たな愛車として選ぶ方も多くいる。 なぜ新たな愛車として迎え入れたのか? 新たにオーナーとなられた方にお話を伺った。 ■根っからの日産フリークなファミリー 今回、お話を伺ったのは、親子で旧車を愛車としているご家族だ。 お父さまは日産スカイラインGT-R(R32型)を所有しつつ、最近日産パルサー VZ-R(N15型)を通勤メインのクルマとして購入したのだとか。 長男である息子さんは、お父さまと同じ型のスカイライン GT-Rを所有されている。 今回お話を伺うことはできなかったが、次男の息子さんは、日産フェアレディZ(Z33型)にお乗りとのことだ。 おわかりの通り、大の日産フリークなご家族なのだ(笑)。 今回、パルサーVZ-Rを購入されたお父さまの内容となる。 今所有されているクルマについて伺った。 「R32スカイラインGT-Rは2008年頃、知人が手放す車両を購入しました。それまで、DR30 スカイラインRSターボに乗っていたのですが、やはりGT-Rには一度は乗っておきたいという思いを持っていたため、意を決して乗り換えました」 やはり、多くのクルマ好きが一度は憧れる、GT-R。 日産フリークであり、憧れを持っていた方にとって、そんな縁談の話は願ったり叶ったりに違いないだろう。 最近購入された、パルサーについて伺った。 「パルサーは半年ほど前、中古車店で購入しました。通勤で使っていたK12マーチからの買い替えになります」 なぜ、今まで乗られていたマーチより古い、パルサーに乗り換えられたのか? 「パルサーVZ-Rも、いつか乗りたいと思っていました。今回の購入時には、VZ-Rしか考えていませんでした」 そこまでの熱い思いを持たれているには理由があるはず。 さらに詳しく伺ってみた。 「昔、耐久レースに日産のワークスとしてVZ-Rが出てました。その時にびっくりするほど速かったんです。」 筆者も、当時VZ-Rがレースに出ていたのは知っていた。 しかし、残念ながらまだ幼かった筆者は、実際にレースシーンを見る機会がなかった。 レースでの活躍を、生で見た感想も聞くことができた。 「そのレースでは、当時の愛車と同じDR30のRSターボも出走していたのですが、VZ-Rが立ち上がりの加速で離れていっちゃうんですよ。テンロク(1.6L)なのに。それが衝撃でしたね」 「まだ幼かった、息子二人も観戦していたのですが『お父さんのクルマを抜いてった!』と驚いていましたよ!」 幼い息子さんにとっても、父親が乗っている身近な存在である同型のスカイラインが抜かれてしまったことは、記憶に残っているそうだ。 「特に次男がカルチャーショックだったようでして、のちに免許を取って最初に買ったクルマがVZ-Rでした(笑)」 現在、Z33にお乗りの息子さん。 幼心に受けた衝撃がきっかけとなったのか、最初の愛車として3ドアのパルサーVZ-Rを選び、腕を磨いていたそうだ。 VZ-R購入時、他に候補のクルマはあったのか? 「なかったですね。VZ-Rだけでした。最近のスポーツモデルの中古車も同価格帯でありましたが、候補には入っていませんでした」 なぜ、指名買いだったのか? 「この年代(90年代)のクルマって、個性があるじゃないですか。そこに惹かれてました。この頃って、各社ライバルメーカーのクルマに勝ってやろう!とかラリーで優勝してやろう!とか、攻めの姿勢だったのが良いですよね。VZ-RにもN1という仕様もありましたし」 ■心がけているのは予防整備 ここからは、購入後のエピソードについて。 すでにR32 スカイラインGT-Rもお持ちなので、経験は豊富だ。 今までの経験を踏まえ、納車後におこなった整備があるとのこと。 「GT-Rでも同じことを心掛けているのですが、出先で不動にならないよう、予防整備をしています。今回、納車後にオルタネータや点火系などの交換をしました。燃料系はまだなのですが、ここもやっておけば心配は減りますね」 予防整備としては、かなり手厚い部類と思う。 中古車である為、今までの扱われ方が分からないことは多い。 “無事に帰宅する”これは事故に限ったことではなく、忘れがちではあるが整備についても、重要なことと思う。 マイナーな不具合に見舞われたこともあるそうだ。 「タコメーターが動かなくなってしまう症状が出てしまいました。メーター交換をしようと思ったものの、VZ-R専用メーターはすでに製造廃止。標準グレードの物はまだ手に入ったので、メーター修理専門のお店に修理を依頼しました。新しいメーターから故障した部品を移植して、専用メーターを直してもらいました」 「他にも調べると在庫が残り1個の物が多く、気になるところは交換しました」 その行動力と決断に恐れ入ってしまう。 90年代車は多くの「グレード専用部品」がある。 その部品自体の新品はなくとも、流用や移植で修理が可能であり、専門店もあることには驚いた。 ■カスタムも長期の目で見た安心感を 次にこだわりの部分について伺った。 「本当は3ドアが欲しかったのですが、タマ数も減っており、値段も息子が購入したときの1.5倍になっていました。そのなかで見つけたのが今の愛車です」 パルサーVZ-Rにはボディ形状は3タイプある。 4ドアセダン、3ドアハッチバック、5ドアハッチバック。 程度と金額から5ドアハッチバックを購入されたとのことだが、最初拝見した時に違和感があった。 「5ドアはRVブームもあって、フロントバンパーがRVっぽいデザインになっています。それが、ちょっと好みと合わなかったため、3ドアVZ-Rのバンパーに交換しました」 話を伺って、違和感の理由がわかったのだった。 VZ-Rが新車で販売されていたころ、世間はRVブームであった。 そのため、パルサーの5ドアにはRVテイストを与えていた。 そのデザインのまま、VZ-R専用エンジンを載せて販売していたのだ。 他にも、リアのスポイラーをオーテックバージョンの物に変更されている。 交換する際、標準装備のスポイラーと取付穴の位置が合わなかった。 バックゲートを別途中古で購入、穴を開け直してから交換されたそうだ。 従来の穴を埋めることによる、トラブルを避ける為のこだわりが表れていた。 また、マフラーも購入時は社外の物が装着されていたが、純正採用の実績があるフジツボ製に交換されたとのこと。 ■ぜひ、そのクルマのことを理解して乗って欲しい! これから、90年代のクルマに乗ろうと思っている方へ、何かアドバイスがあるか伺ってみた。 「せっかく乗るなら、そのクルマのことを理解して、少しでもいいので勉強して乗ってもらいたいですね。もし、ネームバリューだけで乗りたいと思っているのでしたら、良い結果とならないことが多いので、やめた方がよいと思います」 90年代のクルマは、まだまだ現役で走っている個体も多く、街中でも目にするだろう。 映画やアニメなどでフューチャーされることや、過去の映像作品も動画サイトで目にするだろう。 そこでクルマの名前を知り、同じクルマに乗りたい!と思う人は多くいる。 いつまでも現役で、人気で居続けることは嬉しいことだ。 ただ、そのクルマのことを理解せずに乗った時、旧いが故に現代の感覚と違うことはもちろん、トラブルも発生する。 理想と違うことが起きた時、大きく落胆するだろう。 しかし、ほんの少しでも、そのクルマについて知る努力をしたことで、感じ方は変わってくる。 「せっかく憧れのクルマを愛車としたのに、残念な思い出となってもらいたくない」 そんな思いのこもった言葉だった。 ■ 総括 メーカー同士、意地の張り合いに熱くなっていた時代 今回お話を伺ってわかった、現代にあえて旧車を選ぶ理由。 そこには、デビュー当時の活躍を目の当たりにしてきた方ならではの理由があった。 各メーカーのスポーツモデルには、明確な意識をしているライバルがいた。 そのクルマたちは、ワークスとして戦うレースに留まらず、そのクルマを選んだオーナー同士もお互いを意識し合い、サーキットなどで性能をぶつけ合っていたのだ。 ユーザーも含め、ライバルに秀でるよう切磋琢磨していた時代を見てきたオーナーならではの、熱さを感じるための選択であったと知ることができた取材となった。 [撮影&ライター・お杉]

クルマとは「ライフワーク」そのもの。トヨタ・カリーナ Gリミテッド(1992)
オーナーインタビュー 2023.05.26

クルマとは「ライフワーク」そのもの。トヨタ・カリーナ Gリミテッド(1992)

年式が古くなるにつれ、90年代車にもスポットが当たるようになってきたと感じる昨今だが、もう何年も前からそのカッコよさの虜になり続けている人たちも少なくない。 そのなかでも特に"極まっている"……と思う人物に今まで何度か出会うことがあった。 今回紹介するTetsuGTさんはアラサー世代のなかでも、特に90年代のトヨタ車への造詣が深い人物だと感じる。 そのエピソードは枚挙にいとまがないのだが、個人的に感心させられるのは、氏が20代の頃から続けている東南アジア各地へと旅をし、日本から輸出された中古車のカリーナやコロナ、カローラにカムリ他、現地仕様車などの姿をも追い求めて歩き続けていることだ。 そのひたむきな愛情と興味は自身で所有する車両にも色濃く現れている。 なんと、現在所有する台数はなんと14台(ナンバープレートがついていない車両や部品取り車含め)、歴代車歴を併せると20台以上! その事実だけを伺うと、一瞬、映画スターのようなガレージを想像してしまったが、その多くはトヨタの、しかも平成に作られたモデルで多くが占められている。 並々ならぬその原動力、そしてそのなかでも特にお気に入りのクルマについて今回はスポットをあてていくことにした。 ■クルマはライフワーク。当たり前のようにクルマが側にいる毎日 TetsuGTさんは御年34歳。 生まれてから現在に至るまで、徹底した自動車への愛と興味を注ぎ続けているそうだが、そのルーツには2台のトヨタ車の存在があるという。 「1台は母方の祖父が所有していたカローラワゴン(90系)です。祖父は自動車部品の配達をしており、幼少期の自分はよくその仕事についていっていてその姿を目の当たりにしておりました。もう1台は父親が新車で購入したカリーナ(17系)のスーパーロードで実家で所有していたクルマです。こちらも強い原初の体験になっているものです」 2台との出会いはごく自然にTetsuGTさんの生活に浸透していったことだろうが、それらが30年以上の時を経ても一貫して「好き」であり続けられることは純粋にすごいことだ。 しかし、さらにすごいのはその行動力にあるといえる。 「現在所有している17系カリーナはストック含め、全部で6台あります。自分にとってクルマといえばコレ!といえるほどの存在で、本当に好きなクルマですね。恐らく、すでに一生のなかでカリーナを維持するために必要なだけの部品、およびストックを手に入れているのではないかと思っています」 今回紹介するカリーナは自身のなかで3台目のカリーナ。 26歳のころに購入し、現在8年の月日が経過した「Gリミテッド」。 現存する個体がそもそも少ないカリーナのなかでも珍しい部類といわれるグレードだ。 エンジンはトヨタの1.6リッターエンジンの名機4A-G、出会いは業者オークションで発見し、その後中古車サイトを経由して購入したという。 「元々4A-G搭載のカリーナGT(21系)を所有していたこともあり、そのエンジン特性やフィーリングそのもののファンでした。そのエンジンが大好きな17系に搭載されているというのですから迷わず買ってしまいますよね」 世界を放浪して海外に輸出されていった数々の中古車を眺めてきたTetsuGTさん。 そんななか、8年前の中古車市場でもGリミテッドの出物は皆無だったそう。 購入後、九州から船便で送られてきたカリーナの状態を見て非常に驚いたとか。 「色んな個体を見たなかでも非常に奇麗なクルマだったんですよね。パッと見てわかるくらい手入れが行き届いているクルマで、元オーナーさんがこの個体に対して並々ならぬ愛情を注いでいるたのがよくわかったんです」 購入時ですでに23年経過、しかしワンオーナーで距離は48000km。 レコードブックなどの情報を頼りに歴代オーナーを辿って連絡をとると、そのカリーナの生きてきた痕跡を辿ることができてきたという。 「元オーナーさまはご高齢だったのですが、非常に丁寧な方でした。実はこのカリーナを手離すときは当初、廃車にする予定で解体屋に持って行ったそうなんです。ところが、その解体屋からは引き取るなら逆にお金を貰うという提示をされ、中古車買取店にもって行ったとのことでした」 クルマの運命は不思議なものだ。乗り手によってコンディションの維持が左右されるのは当然であるが、その個体の行き先が決まるのは偶然やさまざまな出会いからなるからだ。 このカリーナは幸運にも解体の運命を逃れ、九州から関東へ。 それも熱狂的なまでの青年の元に収まるのだから、その軌跡を聞くだけで見えない縁のようなものを感じざるを得ない。 TetsuGTさんのもとに嫁いでから走行距離は現在92000km。 すでに初代オーナーと歩んだ距離を上回っている。 「これまで2回ほど、関東から自走で九州の初代オーナーさんの家に"里帰り"しています。オーナーさんはこのカリーナがすでに廃車になっているものだと思っており、その再会には涙を流して喜んでくれたのが嬉しかったです。現在では年賀状のやり取りをするほどの仲になりました」 クルマと通じた出会いが、遠く見ず知らずの誰かとの繋がりを生む。 それも人生単位で関わる様な深い繋がり。 これもまたライフワークといえるのではないだろうか。 ■「クルマを維持していく」ということ 複数台を所有しているTetsuGTさんだが、日々、車両のコンディションを維持していくにはどんな心がけをしてるのか伺ってみた。 「週一回エンジンをかける、ボディカバーをかける、汚したらすぐ掃除……と、基本的なことをやっていると思っています。もちろん古いクルマなので修理する箇所は出たりするのですが、このGリミテッドに関しては本当に修理をしたことが一度もないんです。時々、仕事に行く際にも使用していますが、頑丈なクルマであることを実感しますね」 "トヨタは壊れない"と都市伝説的にいわれるが、これも眉唾でもないことを思わせる。 現在までこのGリミテッドはオイル交換など、日常の整備程度でここまでやってきたそうだが、生活をともにするなかで最も気を使っていることは「安全運転」であるという。 「自分がどんなに気を使っていてももらい事故などはありますが、そもそも自分がスピードを出し過ぎない、など基本的なことを守るようにしています。この個体に関してはガーニッシュやリアスポイラーなど、樹脂で出来た部品は二度と同じコンディションのものは手に入らないと思っています。とはいえ、そんな気遣いをしながらも楽しくドライブができるカリーナのことがやはり大好きですね」 最後にこのカリーナとTetsuGTさんの今後についての目標を伺ってみることにした。 「自分が運転できなくなるまで添い遂げたいですね。しかも手離すときはどこかに寄贈できるような、そんなカタチを迎えられれば本望だと思っています。そんな目標を目指すためにも、そろそろガレージハウスみたいなものを建てられればいいな、なんて想像している最中ですよ」 原風景のなかにあったクルマ達を心ゆくまで堪能する。人生のなかでそんな経験はなんて素晴らしい時間だろうか。 そんな経験のなかでまた新たな繋がりが生まれ、拡がっていくエピソードたち。 クルマたちが運んできたかのようなワクワクするようなできごとが、TetsuGTさんの行く先にまだまだあることだろう。 カリーナとともに進んでいく未来を、この先も楽しみにしていきたい。 [ライター・撮影/TUNA]

祖父から孫へ受け継ぐクルマ。日産・ブルーバードSSS(1991)
オーナーインタビュー 2023.05.19

祖父から孫へ受け継ぐクルマ。日産・ブルーバードSSS(1991)

先日、旧型車の集まるイベントに出展されていた「愛車の終活・相続」のサービスが目に留まった。 生きとし生けるものすべてに訪れる最期。 愛車家にとってもそれは平等にあり、想いが大きなほど残していく物事へ馳せる気持ちは小さくないだろう。 ふと振り返り、自分のクルマを眺める。 あと何年ハンドルを握ることができるだろうか。 最後にはどんなクルマを所有しているだろうか。 もし、そのときクルマを誰かに託せたら心残りはできるだけ少なく旅立てるだろうか。 そんな想いが堂々巡りになっていくなか、知人と、その愛車のことを思い出しインタビューを申し込むことにした。 春の陽気のなか、県道の向こうから白いセダンがやってくる。 そのクルマのノーズは昨今の公道ではかなり低くコンパクト。 それは妙に懐かしく、でも脳裏にひっかかるあの感覚は、かつて筆者の実家で所有していたクルマと同型だからだろうか。 日産・ブルーバードの歴代8代目となるU12型は1987年にデビュー。 セダンとハードトップ、コンフォートなアーバンサルーンシリーズとスポーティなSSSシリーズ、エンジン展開もワイドに用意され、かつての街なかではさほど珍しいとは感じない車種だった。 国内での生産終了から30年以上の月日が経ち、こうして眺めてみるとハッとするほどに新鮮だ。 白いボディ、リアドアには誇らしげな"TWIN CAM"の文字。 スポーティーな装いのセダンを新車で購入したのは現オーナーの祖父にあたる人物だ。 祖父から孫へと受け継いだ日産・ブルーバード。 一体どんなエピソードが宿るのか、すこしだけ覗いてみることにしよう。 ■祖父から受け継ぎし白いセダン オーナーのひらくえさんは29歳。 以前、初代RAV4の記事でインタビューさせていただいたオーナー様だ。 RAV4は家族で所有するクルマだったが、今回のブルーバードは正真正銘ひらくえさんご自身のクルマだ。 今でもこうして元気に走っている個体だが、実は元々おじい様が手放そうといい出した際には捨てられそうになっていたという。 10年前にはすでに希少車であっただろうこの個体。 何故運よくひらくえさんの元に受け継がれたのだろう。 「高齢になった祖父母にはブルーバードはすでに大きな車体でした。当時、新車のマーチなどへ買い替えも検討していたそうなのですが、クルマを買わずに免許の返納を選択したそうです。当然、祖父母にとって古くなって乗らないクルマは必要ないとのこととなったのですが、丁度自分の免許取得の時期が重なりブルーバードを引き継ぐことができました」 1993年生まれのひらくえさんはブルーバードの購入時19歳。 自身より年上となる91年生まれのブルーバードはあまりにも思い入れのあるクルマだったそう。 譲渡される際、祖母からは「こんなの乗るの?」といわれてしまったそうだが、幼少期からクルマ好きだったひらくえさんにとってブルーバード、もといセダンという存在は特に大きな存在だったのだ。 ■自我が芽生えるより先にクルマが好き。DNAレベルで愛してる 両親ともにクルマには興味のない家に育ったというひらくえさん。 しかし、幼少期のひらくえさんを見た両親は「この子、ヤバいくらいクルマ好きなんじゃないかしら」と気づき始めることとなる。 「1歳になるかどうかの頃に、父方の祖母がトミカのセドリックの赤いミニカーを買ってくれたんです。数ある玩具のなかでもそれが特にお気に入りで、肌身離さず持ち歩き続けていたらしいです。また、ベビーカーに乗っていた頃から街行くクルマに関心を持ち続けていたらしいんです。今とほとんど変わりませんね(笑)」 強くクルマに惹かれていく我が子を見過ごせないひらくえさんのご両親。 その興味の眼差しに徐々に理解を示してくれたという。 「両親はクルマには興味のない人でしたが、小さな頃の僕のクルマ趣味に理解を示してくれたことに感謝しています。例えば、2歳のときに東京モーターショーに連れて行ってくれたり、そのなかでも古いクルマが好きらしいということを汲み取り、関東からわざわざ日本海クラシックカーレビューに連れて行ってくれたりしたこともありました」 ご両親の協力もあり、DNAレベルでクルマが刻み込まれていったひらくえさん。 とはいえ30歳を目前に一切ブレずにクルマ趣味を続けてこれたのは自分でも不思議なことだそう。 小、中、高等学校と己の道を進み続けたひらくえさん。 18歳の頃に免許を取得し、専門学校に進学した後はこのクルマで通学もしていたそうだ。 「整備士などを養成する自動車系の専門学校に通っていたのですが、当時すでに古い型のブルーバードで通学することは珍しい存在でした。大がかりな作業はプロに依頼していますが、スピーカーを取り付けたり最低限のメンテナンスは自分で行うようにしています」 車体から異音がしたりすると、故障個所の予測を立て予防整備をすることも少なくないとか。 ひらくえ家で28年もの間所有しているRAV4とともに物持ちが良いのは、日頃の付き合い方やエピソードからも垣間見ることができる。 ■「ブルーバードが好きだ」シンプルなクルマの素性に惚れる 「気に入っているところはクルマ自体がシンプルなところですね。華美なところはなく、走る・曲がる・止まるに難なく応えてくれることがすごく気に入っているんです。CMのキャッチコピーのとおりで、"ブルーバードが好きだ"なんですよね」 そう話すとおり、ブルーバードは当時のバブル真っただなかのミドルクラスセダンを思い返しても豪華すぎる装備は奢られていない。 しかしながらカーステレオにエアコン、パワーウインドウなど、令和の世にあっても最低限欲しいものが装備されていることも不満が生まれないことのファクターであろう。 それにデザインにおいてもシンプルでありつつ、ナチュラルな凛々しさを感じる。 エンジンはSR18DE、1.8リッターの名機だ。 ミッションは5MTで日常生活に何ら不満はないという。 この10年間のなかでブルーバードとはどんな思い出が詰まっているのだろうか。 「このクルマと過ごした思い出はいろいろありますね。自分はSNSをやっていないのでインターネットを通じた出会いは数少ないのですが、リアルのイベントでブルーバードを見て声を掛けてくれた人と交友が拡がり、今では会えば何時間でも話せる深い仲になっています」 20代のクルマを取り巻く環境といえばSNSがありきになりつつある昨今、リアルでの出会いから始まる仲はかけがえのないものとなるだろう。 「クルマってコミュニケーションのツールだなあとつくづく感じています。例えばクルマで4人で移動するとき、走行しながら生まれる会話や眺めた景色から生まれるアイデアがあると思っています。このブルーバードにはかなり沢山の人が乗ってくれて、その分生まれたエピソードが10年分の記憶が詰まっているといっても過言ではないですね」 きっとこれからも長い間の付き合いが続いていくんでしょうね、と筆者が投げかけると「頼むから部品の供給だけはつづいてください!」と切実な言葉を貰った。 「最近ではエンジンマウントにダメージがあり、メーカーからは4つあるうちの2つしか出ませんでした。その2つの交換で症状は良くなったので現状は快調そのものですが、これからは創意工夫で走ることもあるだろうな、と思いつつなるべく延命していきたいなと思いますね」 旧車属性に足を踏み入れつつある個体のオーナーとしてはその声がメーカーへと届いてくれると嬉しいものだ。 最近ではメーカーも部品の再生産に力を入れ始めているが、すべての車種でそれらが行われるのは生産上難しいことであろう。 「それでも、なんだかんだで乗っていくんだと思っています」 ひらくえさんからさらりと出た言葉はあまりに力強い。 祖父から受け継ぎしブルーバードは生産されてから32年目。 もうとっくの前から公道ですれ違う機会はほとんどない。 別れ際、懐かしい日産車のセルとエンジン音が響く。 去っていく後ろ姿にはまだまだいけるぞ、という気配が漂っているように思えた。 ひらくえさんとこの先もカタチあるかぎり、新たなエピソードを生み続けながらこの先も羽ばたくことを予感させながら。 [ライター・撮影/TUNA]  

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