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オフタイムはクルマ趣味を満喫している人で、オンタイムもクルマにまつわる仕事についているケースも少なくない。だが、お仕事中も興味のあるクルマに乗れるかというと、そうでもないだろう。 平日の高速道路、走行車線をのんびり流していると右側から目を三角にしてカッ飛ばしていくライトバンの姿を何度も見たことがある。 素直に「お仕事、お疲れ様です」と心の中で唱えつつ、あのドライバーとライトバンはどんな関係で、どんな心持ちで仕事をこなしているのだろうと考えてしまう。 筆者がかつてエンジニア業に携わっていたころ、社用車のプロボックス・ハイブリッドで街を駆け巡っていたことがある。 まだ、街中でプロボックス・ハイブリッドの商用車とすれ違う機会が少なかった事もあり、新車おろしたてのピカピカプロボックスのステアリングを握り、業務そっちのけで会社と目的地の間を楽しくドライブしていた。 そんなエピソードを会社の食堂でクルマ好きの同僚に話すと「お前、よく商用車なんかに興味を持てるなァ……」と半ば呆れ気味に返された。 彼にとってライトバンの車内で過ごす時間は、あくまで仕事中の”苦痛な時間”で、筆者のように”移動ご褒美タイム”などではなかったことを知り、少し寂しい気持ちになった。 それからというもの、渋滞の首都高のなか追い抜き追い越されする商用バンたちの様子とドライバーの表情をときどき伺っていたものだ。 実は今回の取材は別件のテーマで依頼する予定だったのだが、取材先に乗ってきて頂いたADバンを見てふと首都高で眺めていたときの「ライトバンの中身はどうなっているのだろう」という純粋な疑問が思い返された。 取材対象のジュンさんに事情を説明するとインタビューを快諾してくださった。 クルマの取材記事では珍しいかもしれない、仕事終わりの“ありのままの”姿をひとつのケースサンプルとして眺めてみることにする。 ■生粋のクルマ好きはカーディテイラーに ジュンさんは33歳、学生耐久レースでは92レビンのステアリングを握り、卒業後はディーラーメカニックとして働きながら日産の初代ウイングロードを所有するなど、平成生まれとしては少しディープなクルマ体験をしてきた。 クルマの書籍やビデオカタログにも造詣が深く、骨董品を見つけては手に入れることをライフワークとして続けているそうだ。 20代後半はアパレル業などでも活躍していたジュンさんだったが、根っからのクルマ青年だったことと、クルマの造形美に改めて魅せられはじめ、車体を際立たせるカーコーティングの道に惹かれていったそう。 あれよあれよという間にカーコーティングショップに転職し、今ではプロのディテイラーとして働いているそうだ。 「カーディーラーや中古車店などで磨きをさせていただいてます。元々クルマのカタチやデザインに興味を持っていたのですが、実際にその表面や塗装に触れてみるとクルマやコンディションごとに表情があり一つ一つ課題を立てて磨くのが凄く面白いんです。弊社は磨きを行うブースも完備していますが、販売店で展示されているものを洗車することもあるので道具などを常に載せられるクルマは業務に欠かせない相棒ですね」 ジュンさんの相棒は日産ADバン。 まだ現行車である為街中でもよくみかけるが、実は登場は2006年と古く取材次点で17年の歴史がある。 今回ジュンさんが乗ってきてくれたADバンも2008年式と生産からはそれなりの経過年数が経っているが、業務用途で使っている割には痛みがちな無塗装バンパーやヘッドライトもビシっと奇麗な印象を受ける。 「業務上、あまり汚いクルマでお伺いするのは良くないので外装の印象やメンテナンスには気を使っています。ただ、元々中古車を導入しているので頑張っても消せないダメージがあり、そういった部分は磨いてごまかしたりもしていますね(笑)」 スチールホイールやサイドシルの一部はDIYでブラックに塗られており、ADバンを知る人なら違いがわかるかもしれない。 こういった小さな差異が道具としての満足感を高めるものでもあるだろう。 ■意外と良い走り味、侮れぬライトバンの実力 走行距離は11万キロ台、商用車にしては距離が浅いがその乗りごこちはいかがだろう? エンジンは1.5LのHR15DE。最大積載量は450kg、一般的な使用には不足を感じさせないスペックだ。 「ADバン、商用車としていいクルマだと思います!走りに安っぽい……というネガはあまり感じません。前職で90年代のライトバンに乗っていたことがありましたが、リーフリジットサスペンションのころのクルマとは比べものにならないですね」 そう伺うと運転してみたくなってしまい、少しの距離を走らせてもらうことにした。 4速ATのギアを入れる感覚はまさに日産車、といった印象。走り出しにダルな感じはなくトルクは充分。乗用車の3代目ウイングロードとインパネを一部共有しながらバン向けの専用設計としているだけあり、内装にもさほど安っぽさを感じない。走り始めてからも遮音性で悲しい気持ちになるかと思えばそんなこともないのだ。 逆に、乗用車ベースのデザインでありながら、ペン立てやグレードによってはマジックボードの機能や助手席のシートバックテーブルが出現することなどなど……痒いところに手が届くこのツール感覚は、長距離を走る車中泊にももってこいなのではなかろうか。 「実際このクルマのなかで食事をしたり休憩をすることもありますね。日々、関東の北側はどこへでも行く体勢としているので、室内は雑然としつつも今の状態は自分が使いやすいように配置しています。ちょっと恥ずかしいですが……」 トランクスペースはカーコーティング用の道具でいっぱいだ。 掃除機に薬剤、バケツなどなど……いつでも洗車が開始できる状態が整っている。 「本当はもう少し荷物を少なくして移動することも可能なのですが、いつどんな内容でも磨きが始められるようにしていますね。もっと荷物をまとめられるならば、セダン系の車種を営業車にして走り回ってみたいです。今はJ31のティアナなんかがすごく気になっているので、ピカピカにした状態でお客様のところへ訪問してみたいなぁ……なんて妄想してますね(笑)」 もし、カーコーティングを依頼して初代ティアナで訪問して頂いたらそれはビックリだが、そんなサービスだってきっとアリだ。 最後にADバンと一緒にあちこち動くジュンさんに今後の意気込みを伺ってみる。 「自分のクルマではないから愛着が無いか問われればそんなことはないですね!すでに2年、それも平日は毎日一緒にいるクルマなので、なかなかかわいいと思ってますよ。今はドアのサッシュがバンらしく塗装色になっているのが気になっていて、カッティングステッカーで黒くしようかな?と画策中です。今のところ故障もなく、よく働いてくれていますが、会社の都合で急にお別れの日が来るかもしれません。でも、一緒に働く限りは手をかけてあげるのが道具として、相棒としてのクルマだとおもっています!」 偶然に取材させていただいたジュンさんとADバン。 クルマ好きが就いた職場のバンという関係性ではあるものの、とある営業車にはこんな風な眼差しを向けられているのかと少し嬉しくなった。 オドメーターが刻んだ数だけ、ビジネスの痕跡を感じさせる商用車。 もしこの記事を読んでいる貴方が会社で商用車をお乗りになるならば……少し思い出してあげてほしい。 同僚や家族の誰も知らない……。 でもあなたが仕事で挑戦した喜びも悔しさも、ひょっとしたらこっそり知ってくれているかもしれない商用車たち。 そんな存在をときどき労ってみるのはいかがだろうか。 [ライター・撮影/TUNA]
ホンダ初の4輪自動車「T360(さんびゃくろくじゅう)」を修理すると聞き、復活するまでの密着取材の機会に恵まれた。 聞けば1台の部品取り車の部品を2台で共有しながら、不具合を解決していくのだという。 T360の存在は把握していたものの、筆者が実車にふれたのは初めて。 見た目の愛らしさに魅了され、注ぎ込まれた技術に圧倒された。 今回の修理の過程を前編と後編に分け、T360の魅力とともにお伝えしていく。 ■ホンダが初めて市販した4輪自動車 T360 T360は、2輪メーカーだったホンダが4輪業界へ進出した際、初めて市販された4輪自動車。 1963年から1967年という4年間で生産されたセミキャブオーバーの軽トラックだ。 エンジンを15度に寝かせて座席下に搭載するミッドシップとなっている。 もともとオートバイレースやF1(第1期)に携わって経験を積んだ技術者たちがその技術力を注ぎ込んでいるため、当時の商用車としてはありえないメカニズムで高性能を誇った。 ●開発の背景 高度経済成長期の1961年、当時の通産省から「特定産業振興臨時措置法案(特振法案)」が提出された。 国際競争力の弱い産業の強化を図るべく、「自動車」「特殊鋼」「石油化学」を特定産業に指定し、各自動車メーカーを統合して3社に絞ることにした(結果的には廃案となった)。 当時ホンダは2輪車業界で成功をおさめていた。 マン島TTレースを制覇。 小型オートバイのスーパーカブが大ヒットしていたが、4輪車の実績がなかったため特振法案によって新規参入が認められない恐れがあった。 すでに4輪車の開発には着手していたが、法案成立までに4輪車の生産販売実績をあげなければならなくなった。 開発されたのは軽自動車のスポーツカー「S360」と「S500」。そして軽トラックの「T360」。 市場では産業の発展によって商用車の需要が高まっていたことから、T360が「ホンダ初の4輪車」として市販されることとなり、1963年8月に発売された(S500は同年10月発売)。 ▲一見ピックアップトラックにも見えるがキャビンと荷台が分かれており、セミキャブオーバー型の軽トラックに分類される。マットなブルーのボディカラーは「メイブルー」と呼ばれる純正色 ●レーシングカーの発想でできあがった、日本初のDOHC直列4気筒エンジン 当時の国産車のエンジンは4ストロークOHVが主流で、軽自動車においては2ストローク2気筒が主流だったなか、T360は水冷直列4気筒DOHCエンジンを国産車で初めて搭載した。 同時期の軽自動車が20〜25馬力程度の時代に、最高出力30馬力を8500回転で発生する高回転高出力型エンジンで、ホンダがF1と2輪レースで培ったテクノロジーが活かされていた。 ▲初期型はCV型キャブレターを4連で装備[写真提供/吉備旧車倶楽部] ●なぜ残っている個体が少ないのか 1963年から1967年の4年間しか生産されなかったT360だが、現存する台数は約10万台といわれる生産台数に対して極端に少ない。 理由のひとつに、設計変更を繰り返したがゆえの「部品探しの難しさ」があるようだ。 生産当時、現場の声に素早く対応するため、生産中はまとめて改良することをせず、その都度設計変更・改修が加えられた。 そのため同じ部品・仕様で生産された現代のクルマのように、明確なマイナーチェンジモデルがないのだ。 よって、同じ年式の部品取り車があったとしても、部品が合わないことが多々あった。 これがT360の維持・再生を困難なものとしている。 また、現役当時もレーシングカー譲りの高性能で高度な設計であったため、ホンダSF(サービスファクトリー)以外の整備士が修理するには、難度が高かったという問題もあったようだ。 壊れてもすぐに直せて復帰できる実用性がもとめられる商用車、軽トラックだったからこそ残らなかったのだろう。 これがもし生産されなかったS360なら、名車として今も多くの個体が残っていたのかもしれない。 現代のクルマにはあり得ない、別格の生まれをもつT360。 その後、シビックなどのレースでの活躍もホンダのスポーツイメージをさらに高め、T360も「伝説の軽トラ」「スポーツトラック」と呼ばれるようになっていったと思われる。 ●純正から「タコ足」! 今回修理した1965年式のT360。エキゾーストパイプの形状は、ご覧の通り純正で「タコ足」であり、F1由来の思想を感じる。 高性能を売りにしたためコスト度外視。市販レベルでここまで作り込んでいるホンダは“ぶっ飛んだ”メーカーだ。 また、わずかな年式の違いでも「HONDA」の字体が異なっているプラグカバーにも注目したい。このようなわずかな違いが、愛好家にとってはこだわりの部分である。 ■T360のオーナー紹介 そんなT360を所有する、淵本芳浩さんと整備士の西栄一さん。 旧車イベントを通じて知り合った淵本さんと西さん。 淵本さんが部品取り用の個体を手に入れ、西さんが2台の修理を手がけた。 前編では、淵本さんのT360の修復を詳しく紹介していく。 ▲2010年頃、淵本さんのT360(右)納車当時の1枚。西さんのT360(左)と一緒に[写真提供/吉備旧車倶楽部] 淵本芳浩さん(62歳) 淵本さんはホンダが好きで、ホンダの2輪をはじめN360、ステップバン、Z、ライフ、バモスなどのさまざまなモデルを乗り継いできた。 愛車の1965年式T360(AK250)は、淵本さんが2011年に前オーナーのご家族から譲り受ける形で購入した個体だ。 公道復帰に向けてコツコツと整備をしてきたが、T360は他のホンダ車に比べて整備が難しく、幾度も壁にぶつかる。 そんななか、T360に長く乗り続ける整備士の西栄一さんと知り合う。 西栄一さん(68歳) 今回のレストアを手がけた西さんは、レースメカニックなどの経歴を持つベテラン整備士。 専門学校時代にツインカムエンジンの教材としてT360を使って整備技術も学んでいる。 1966年式のT360(AK250)を50年近く所有している。 ■部品取りの個体を手に入れるまで 2011年、地元の漁港近辺で部品取り用の個体を発見して購入。 部品取り用個体の年式は、淵本さんのT360と同じ1965年式だが、冒頭でふれた「設計変更・改修」がこの2台の間にも行われているため、淵本さんのT360とは共通の部分と異なる部分がある。 いっぽうで、1966年式の西さんのT360に使える部品もあった。 このことが2台の再生にあたり、良い方向に動いたといえる。 部品取り用の個体は、長い間潮風にさらされて外装はほとんど朽ちていたが、エンジンパーツや内装パーツ、ワイヤーハーネス、ガラス類など再利用可能な部品を選別し、摘出した。 ▲左は2014年、部品を摘出する直前の1枚。右は発見したそのときに撮影したもの。樹木に覆われて朽ちかけていた[写真提供/吉備旧車倶楽部] ■淵本さんのT360を修復!トラブルと対策 ▲キャブレターを脱着しての整備中[写真提供/吉備旧車倶楽部] まずは淵本さんのT360に取り掛かった西さん。 エンジンが始動するかどうかの確認から始まった。 そして、部品取り個体から摘出した部品や他車種からの流用部品、汎用品を用いて修復を進めたという。 前オーナー時代の整備状況が不明なうえ、オリジナルとは異なる部品も多かった。 一つひとつ検証を重ねながら作業が進められた。 西さん:「T360の場合、S500、S600、S800の部品が一部流用できます。オールドSの専門店から復刻される部品も増えてきましたし、以前よりもずいぶん直しやすくなったと思います。 ただ、現代車用の部品を流用する場合は、注意が必要です。とくに現代の部品を追加・交換する場合は、オーバースペックでトラブルを招く可能性もあります。 例えばインジェクション用の電磁ポンプを使う場合は、そのまま使うと燃圧が高すぎてキャブレターのオーバーフローが起こります。圧送力が大きすぎるものもあります。もし使用する場合は燃料圧力調整器を使用しなくてはなりません。 旧車の整備は『当時の状態』『修理はどうしていたのか』を紐解き、それを踏まえた“現代の修理”を行うことが重要です」 今回行った修復内容を解説しつつ紹介していこう。 ●エンジン始動不良 コンタクトポイントの異常摩耗によって点火不良を起こし、エンジンが掛からなくなっていたため、西さんのストック品を使い交換した。 コンタクトポイントを含めた電装品は日本電装製と日立製があり、双方の互換性がない。 T360には同じ時期に生産された個体であっても生産の段階から2社別々の部品が使われているという特殊な部品事情がある。 2工場で同時に生産していたことが大きな理由で、それぞれの工場に納品される部品が異なっていたと思われる。 ▲コンタクトポイントは日立製。焼け溶けてガタガタになっているのが確認できる ▲日立製(左)と日本電装製(右)のコンタクトポイント。見分ける大きな特徴は中央の凸部の形状が異なる点。互換性はない ●フューエルメーターの作動不良 フューエルメーターが正しく作動せず、燃料の残量がわかりにくくなっていた。 メーターはバイメタルを使用していて、熱変動で動いている。 そのため、メーター内の電球の熱で誤動作を起こしていた。 おそらく前に整備した人物が知らずに12ボルトを流してしまったと思われる。 現行車の考えでは修理できない例のひとつだ。 ▲6ボルトであるべき電流を12ボルトで流してしまったためバイメタルの部分が焼けてしまっている 対策として、タンクの脱着とユニットの清掃、配線の修理を行った。 確認の際、電流計は直列につなぎ6ボルトで行った(当時の2輪車の方法に準じた)。 このような部分に2輪メーカーのホンダを感じる。 ●オーバーヒート発生 試走でオーバーヒートを起こした。 水温は108度。 最初はサーモスタットの異常を疑い、サーモスタットを取り外したが変化はなかった。 さらに確認したところ、T360のラジエーターが正規品でないことがわかった。 前オーナーが特注でラジエーターを作っていたようだ。ラジエーターのアッパータンク、コアチューブが小さく、アッパータンクがチョークワイヤーに干渉していた。 サービスマニュアルと照合すると本来5リットル指定のはずだが、4リットルしか入らなかった。 ▲左が特注品のラジエーター。おそらくデータを確認せず正規品を模したため4リットルになってしまったのだろう そこで、大型車用のラジエーターをベースに、専門業者に依頼して水量5リットルのものを製作。 その際、部品取り用個体からアッパータンクとロアタンクを使用した。 サーモスタットも劣化していたので大型車用に交換。 82度で開くものを使用した。 ●フューエルタンクの詰まりと錆の発生 キャブレター清掃時、燃料に錆が混入していたのを確認。燃料タンクを取り外して清掃を行った。 ●クラッチがときどき切れなくなる トランスミッションが熱をもつことで油圧式のクラッチ系統に熱が伝わり、ペーパーロック現象を引き起こし、クラッチが切れなくなっていると推察。 熱を遮断するスレーブシリンダーインシュレーター(ガスケット)を確認したところ、取り付けられていなかった。そのため、シャフトの作動にも異常をきたしていた。 急きょ、西さんのT360に装着しているものを見本に、ベークライトを切り出して製作した。 ▲本来は○部分にスレーブシリンダーインシュレーターが取り付けられている ●チャージランプの不良 チャージランプが頻繁に切れるので確認したところ、ヒューズホルダーの接点に錆が発生。 熱をもつことで正常に作動しなくなっていることが判明した。 高回転でフルチャージになったときに不良を起こす。 ヒューズホルダーASSY交換(汎用品)で対応した。 ●燃料漏れ発生 純正の機械式フューエルポンプのアウト側のキャップが外れて燃料が漏れ出した。 淵本さんが保有していたホンダ ライフ(初代)用の電磁ポンプを加工・取付。 ガスケットは製作した。 ●キャブレターのオーバーフロー(燃料漏れ) フロート(浮き)に堆積した汚れが原因だったため、清掃を行った。 ●キャブレターの調整 4連キャブレターのため、調律・調整をとるのが難しい。 エンジンが座席の下にあることで脱着の回数も多く、時間を要した。 セッティングはまだ納得できるレベルではないので、今後さらに煮詰めて絶好調へ持っていく予定だ。 ▲左からサクション・ニードルの調整。フロート(浮き)のレベル(高さ)の調整。プライマリーエアージェット、セカンダリーエアージェットを分離しての点検・調整[写真提供/吉備旧車倶楽部] ●サービスマニュアル ▲販売開始当初のサービスマニュアル 今回使用したサービスマニュアルは極初期型用だった。 淵本さんのT360が生産されるまでの間にも繰り返された設計変更・改修により、このマニュアルと現車では、情報と異なる部分も多数あった。 しかし、サービスマニュアルがあるとないとでは、修理するうえでは大違いだ。 ■よみがえった淵本さんのT360 修復作業が一段落し、淵本さんのもとに戻ったT360。 ひさびさの愛車の乗り心地と、T360とのこれからについて伺ってみた。 淵本さん:「西さんに預ける前は、エンジンの回転が上がりにくい状態でしたが、今は吹け上がりもスムーズで走らせていて気持ち良いです。ですが、まだ完璧な状態ではないので、引き続きセッティングを行いながら長く付き合っていけたらと思います」 ■取材後記 自動車会社としての運営体制を整えながら造りあげた、ホンダ初の4輪自動車T360。 当時の時代背景や社内事情もあったにしても、これだけの高回転高出力型エンジンを軽トラックに採用したアンバランスさは、さながら軽トラック(T)の皮をかぶったスポーツカー(S)だ。 そして当時の技術者たちの「今より良いものを作るんだ」という情熱で繰り返されたであろう設計変更・改修の歴史は、軽トラックとしてあるべき姿になっていく過程のようであり、今となっては大きな魅力となっている。 まさに“伝説の軽トラ”だ。 続く後編では走行の様子もレポート。西さんのT360の修復と、T360のさらなる魅力を掘り下げてお届けする。 [取材協力/吉備旧車倶楽部] [ライター・撮影/野鶴美和]
好景気に沸いたバブル景気。 当時を生きた世代にその頃の様子を伺うと「ウチはそんなに恩恵に与ってないわよ〜」なんて聞くのだが、実際のところの消費者行動は2023年よりリッチに感じる。 ちなみに筆者は1990年生まれで、80年代後半に造成された新興住宅地で育った。 最近になって地元を歩くと、公園や住宅地の入口の看板近くのコミュニティ施設などを含めてお金がかかっているなあ、というのが正直な印象だ。 今では多くの日本の都市と同じように高齢化が進み、子どもたちの声は昔より少なくなったと思う。 あまりにテンプレート的な情景だが、ひび割れたままの住宅街の道路と取り外されたままの公園の遊具はどこか物悲しさを感じる。 往時の北海道の住宅街でよく見かけたクルマといえば、ハイラックスサーフやライトエース、パジェロなど4WDとディーゼルの車種が多く、それもグレードはどれも低くなかった。 そのなかでもやはりセダン系の存在感は幼心に影響を与えていたと思う。 ところ変わって90年代の前半、西東京の街に一人のクルマ好き少年がいた。 街は古い団地にメタボリズムを与えながら煌びやかなニュータウンが完成していく。 変化していく街並みを、父親が運転する白いハードトップから覗いた少年時代。 その記憶に触れてみたいと思う。 ■ハードトップの車窓から オーナー氏は今年35歳。 ものづくりの現場に携わるいわば“職人”といって良い職業だ。 東京で生を受け、現在は地方都市に在住している。 「クルマが好きだった兄や父の影響もあって、自然とクルマ好きになっていました。特に歳の離れた兄がミニカーやカタログを集めていたりしたので、興味を惹かれるのは90年代の乗用車が多かったんです」 そんなオーナー氏の心に突き刺さっていたのが、父親が乗っていた7代目のスカイライン“GTターボ”だった。 「生まれた頃に家にあったのが7thスカイラインのハードトップだったんです。色はホワイトでしたが、グレードはパサージュなどとは異なり地味な印象の車両だったと記憶しています。それでも、CMやカタログで謳い文句になっていた“都市工学です”という言葉に憧れていましたし、街の情景にまさにマッチするクルマだなあという印象でした」 今でも、ときどきではあるが、カタログやミニカーの収集をしているというオーナー氏だが、当時からスカイラインのカタログは穴が開くほど眺めたという。 当時、父親の仕事も好調だったといい、物持ちの良いオーナー氏の一家にも好景気に乗っかり、新しいクルマに乗り換えるタイミングとなった。 スカイラインにも深い愛着があったそうだが、乗り換えに際して白羽の矢が当たったのがトヨタ・マークIIだった。 「我が家に来たのは後期型の2.5リッター、グランデでした。子ども心にも内装の触り心地やドアの音ひとつとっても贅沢なクルマで、ものすごくカッコいいクルマがやってきたぞ!という気持ちになりましたね。例えば、父と買い物に行ったり洗車に行ったりと、ささやかなシーンでも印象深い記憶が多く“クルマといえばこれ!”という気持ちなんです」 90年代も後半になり、オーナー氏の一家は地方都市へと移住。 その後住んでいた地域での使い勝手もあり、マークIIは初代のムーヴへと入れ替えられた。 だが、一度火がついたクルマ好き少年の火は消えることなく大きく燃え盛っていく。 「卒業後、エンジニアリング関係の仕事に就きました。そこは自動車にもまつわる環境で質感などを追求する場所でもありました。就職後には元来のクルマ好きが目を覚まし、アルファロメオ・GTVを購入して取り憑かれたようにドライブに明け暮れていたのですが、車両トラブルも多く乗り換えを検討し始めました」 実はアルファロメオを所有しながらも、常々中古車サイトでマークIIやスカイラインを眺めてはいたというオーナー氏。 店頭で実際に触れてしまうと欲しいという気持ちが加速してしまい、掲載されていたマークIIを見に行ったその場で即決したそうだ。 ■さまざまなオプションが組み合わされたマークIIにひとめぼれ 1991年式の80系マークIIハードトップはモデルのなかでも後期にあたる。 販売面でもメガヒットを記録した同車は、販売店独自でさまざまな仕様や初代オーナーが注文したであろう大量に用意されたオプションの数々で、特異な個体も多く存在する。 オーナー氏のマークIIもいわゆるそんな個体で、2.5GTを基本としながらも細部の仕様が異なる。 例えば、ハイマウントストップランプ内蔵のトランクスポイラーとリアガラス内側のハイマウントストップランプがダブルで取り付けられていたり、グレーの内装にブルーガラス、クリアランスソナーの装備やスペアタイヤまでアルミホイールになっているなどなど…なかなか珍しい組み合わせの個体だ。 「走行距離や個体の程度を重視で購入したのですが、現物を見ると珍しい装備の組み合わせが揃った個体であることに気づいたのも購入の決め手でした。何より、実際に乗り込んだときのフィーリングがよく、気に入ってしまいましたね。ボディが小さく、見切りと視界の良さが抜群に良いことも運転していて良いな、と思った点でした」 ■クルマと未来へ行くために オーナー氏が購入してから約6年。 メカ類の交換はいろいろと行っているものの、日々の使用には問題なく活躍しているという。 長く使用していくなかでどんな部分が気に入っているか伺ってみることにした。 「マークIIは非常に元気よく走る部分が気に入っています。やはりターボが効いてからは胸のすくような加速感を味わえますね。また、部品類ひとつひとつの作り込み方がとてもしっかりしているのもこの時代の特徴かもしれません。シートや内装の触り心地、どこを触っても硬い印象がなく、現代でも高級感が感じられる仕上げになっている部分が気に入っています」 マークIIを前にして、内装の質感や乗り心地をさまざまな視点から語るオーナー氏は、さすがものづくりの現場にいる人だと思わざるを得ない。 そしてその口元から溢れる笑みからはこの個体が本当に好きなんだろう、という気持ちを強く感じさせる。 「今後、EVや燃料電池のクルマが出てきても乗れる限りはこのマークIIを手放すことはないでしょう。現在は機関係のリフレッシュに重点をおき整備をしていますが、今後は外装のリペアも行っていけたらいいなと思っています。もし手に入るのならば、新型のZなども近年の内燃機関エンジンのクルマとして非常に気になっている存在ですが、きっとこのまま浮気せずマークIIを所有していくような気がしていますね(笑)」 取材を終えて、オーナー氏とマークIIは走り出す。 取材場所は偶然にも住宅街となり、情景があの日見たニュータウンと重なる。 すでに生産から30年以上が経過した車両。そして人々の営みとともに歴史を重ねていく街並み。 そんななか、マークIIはこの先も生き続けていくことだろう。 JZエンジンの静かな響きが住宅街の空間に小さく反響する。 その音色は将来、街や自動車のカタチがどんなに変わろうとも、マークIIが今後も変わらない姿を約束してくれているかのようだった。 [ライター・撮影/TUNA]
愛されるクルマとはなんだろう───。 オーナーによって接し方はさまざまだ。 空調付きのインナーガレージで日々眺め、週末のドライブを楽しむ人。 はたまたSNSで写真を日々アップロードする人。 生涯でも大きな買い物といえるクルマだからこそ、天塩にかけて愛でたくなる気持ちも大きくなることだろう。 先日、筆者は15年落ちのファミリーカーを購入した。 手元に来たら一度しっかり洗車をしたくなる筆者なのだが、購入したクルマのシートレールの隙間から年代ものの“アイカツ”カードが出てきた。 他にもヘアピンや小さなお菓子のパッケージなどなど、「小さな子どもと家族」の痕跡が至るところから発掘され、そのクルマが家族の愛のなかで存在していたことに思いを馳せた。 ▲94年に発売された初代トヨタ・RAV4。1年後に追加された5ドア版がRAV4 Ⅴ(ファイブ)だ 同じ公道を走るクルマといえど、スーパーカーとファミリーカーでは住む世界が違う…のかもしれないが、それぞれの人と機械の関係性。 過ごした時間から来る思い入れや感情にはそれぞれのストーリーがあるはずだ。 今回紹介するクルマも、20年以上前は街中でよくすれ違ったファミリーカーだ。 しかし、今になってみれば年に何回すれ違うだろうか、といった具合。 それもワンオーナーカーともなれば、その個体と重ねた経験の数々は計り知れない。 オーナーと家族の物語。そんな視点で紐解いてみようと思う。 ■子供のころからずっと一緒。家族とともに歩む28年 「自分が2歳の頃我が家にやってきたんです。父がこのクルマの前に乗ってたCAアコードとの別れが非常に寂しかったことすらいまだに覚えていますね〜!」 笑ってそう話すのは平久江さん、今年30歳になる温和な青年だ。 普段ならそのクルマのオーナーさんにスポットを当てるが、このクルマの持ち主は彼のお父様である。 1994年に登場したトヨタ・RAV4。 それから1年遅れの1995年に追加で登場するのが5ドア版のRAV4” L”と”J” Ⅴ(ファイブ)だ。 平久江少年が2歳だった頃やってきたRAV4だったが、本来はSUVタイプのクルマが欲しかったわけではなかったという。 「天井のライナーが落ちてきたCAアコードに憤りを覚えた父は、当時別のクルマをオーダーしにトヨタのカローラ店へと足を運んだそうです。そこでディーラーの方におすすめされたのがRAV4 L Vでした。当時はまだ発売前だったこともあり、RAV4にはまったく興味のなかった父でしたが”家族4人で乗るならば…”と、購入を決めたらしいですね」 ショールームにあったRAV4も平久江家と同じライトアクアメタリックオパールだったそう。 シルバーやダークブルーといった個体が多かったRAV4だが、なぜこの色を選んだのであろうか。 ▲ボデーカラーはライトアクアメタリックオパール。RAV4 Ⅴの専用色だ 「父が石などに興味があり、色の名称と見た目の雰囲気に一目惚れしたそうです。まだRAV4を街中でよく見かけた当時から珍しい色で、同じ色の個体とすれ違うと家族でちょっとした話題になっていたのが思い出深いです」 まさに新車オーダーならではのエピソードだ。注文時からのこだわりは他にも続く。 「ディーラーの方から新車時にしかつけられない装備がありますよ!といわれ、メーカーオプションでさまざまなものが取り付けられています。今となっては珍しい装備ではあるのですが、ほとんど使用しているのを見たことがないムーンルーフなど…本当に必要だったのか?と思ってしまったりしています(笑)」 ▲「父が使っているのは数回ほど」というムーンルーフは工場出荷時のオプション。息子氏は便利でよくチルトアップして利用するようだ ときどき中古車市場で流通するレアなオプションが装備されている旧型の中古車たちにも、注文時にはこんなエピソードがあったのかもしれない。 ただ、それらの話を30年近く経過した今、実際の愛車を前に伺えるのはこういったメディアの前にでも出てこない限りかなり稀有なことではないだろうか。 ところで、平久江家ではなぜ28年もの間、RAV4は愛され続けたのだろうか。 「単純にこのクルマであらゆることに不足しないからなんです。我が家の車庫事情が5ナンバーサイズまでというのもありますが、家族4人で乗車して荷物を積んでも窮屈さを感じません。免許を取得してからは僕もよくこのクルマを使わせてもらっているのですが、このサイズ感は自分でも気に入っています。今のRAV4もすっごくカッコいいと思っています!」 ▲インテリアもトヨタらしい質実剛健なデザインだが、それまでのクロカン系車種の無骨なデザインではなく、同社のセダンなどからも遠くない上質なものだ 最近では街中で走っていると、後方についた現行のRAV4ユーザーが驚きの顔で「これがRAV4?」と話しているかのようなシーンとも何度か遭遇することもあったとか。 確かにラギットに進化した近年のRAV4とはキャラクター自体も異なっているように感じるが、タウンユースもアウトドアユースも気軽、かつアクティブに一台でこなせる姿は過去から現代まで続くキャラクターといえよう。 車体の全長は4105mm、全幅は現行のトヨタ・ライズと同じで1695mmの5ナンバーサイズだ。 ラウンディッシュなボデーの造形は抑揚があり、当時のトヨタデザインらしい艶やかさも魅力だ。 販売店チャンネル違いで販売されたRAV4の”J”と”L”。 Jは当時のオート店向けでLはカローラ店向け。 Lのグリルは格子状になっているのが特徴のひとつだ。 ▲3S-FEはタフな名機だ。スポーツカーなどにも搭載されているが、イプサムなど海外でも評価が高い エンジンは名機3S-FE。 2リッター、135psは必要にして十分。 何よりその高い耐久性は、海外に中古車として輸出されていった同エンジン搭載車が今でもかなりの台数走り回っていることを考えると自ずと頷けてしまう。 メーカーでの装着オプション以外にカスタムされた点は少なく、ナンバープレートも新車当時のまま。 猫可愛がりされているガレージ保管の車両ともまた趣が異なり、28年間のありのままの姿が逞しく見える。 例えば、車内の携帯電話の充電器やクッション類すらもこのクルマの歴史を物語る痕跡だ。 少年時代の平久江氏とはどんな思い出を紡いできたのだろう。 「自分の子供時代はキャンプや潮干狩りに連れていってもらった記憶がありますね。そういった思い出補正的に特別な感情があります。今は自分もクルマが大好きで、自動車にまつわるイベントを開催する側にもなったほどです。そのうえで感じるのは、新車から長い間一台のクルマを感じられることはなんて恵まれた環境なんだろうと思っていますね」 ▲カンガルーバーはオプション。フォグランプガードがアウトドアライクなデザインは現代にも通ずるものだ 生涯、何台のクルマに気持ちを揺すぶられることだろう。 そのクルマと生活を共にして思い出が作れたならば愛車家としてはこの上ない。 そしてこのRAV4も平久江さんにとって格別な存在であることだろう。 今後、このクルマとどんな風に時を過ごしていきたいか最後に伺ってみることにした。 「今は所有者である父親が免許を返納するまで、なんとか無事な状態で生き残って欲しいと思っています(笑)。ここまできたらRAV4は手放さないつもりでいて、ある意味責任といいますか、できるだけ長く所有できればと思っていますね!」 クルマと家族の物語。幼い頃より共に暮らし育ち、育てられてきた存在。 大きくなった平久江さんはRAV4のシフトノブを握り西へ東へと今日も行く。 愛されるクルマとはなんだろう───。 その答えはやはり千差万別であるのだが、少なくとも平久江家のRAV4はそこかしこにエピソードが宿る。 そんなクルマはやはり”愛車”と呼ばれるのに相応しい気がしたのだ。[ライター・撮影/TUNA]
年々高くなる税金に燃料代...。 ネオ・クラシックな趣味車の値段はここ近年特に高くなり「ああ、あのとき買っておけば...」なんてことも多々ある。 とはいっても、自分の身体は一つしかなく、生活のなかでクルマを楽しめる時間は意外と僅か。 家族とのライフスタイルなどなど、さまざまな制約と限られた時間のなかでマイカーを愛でるひとときはもはや至福の時間といっていい。 今回、紹介する優さんは筆者が10年ほど前に出会い、以前スカイライン セダンのオーナーとしてインタビューをさせていただいたオーナーさんだ。 22歳でスカイラインを購入した青年は1児の父となり、生活を彩る風景も大きく変わったことだろう。 家族とカーライフを両立しながらも、現在は所有して3年目となるホンダ・インテグラタイプS(2006年式)を所有。 独身だった20代前半から子持ちのアラサーへ...。 ひとりのクルマ好きの近況と情景を切り取ってみたくなり、再度インタビューを申し込むことにした。 ■「今乗っておきたいクルマ」という気持ちの赴くままに・・・ 優さんは今年で32歳になる。 中学時代に雑誌で眺めたFR車の姿や、当時の恩師からの影響もあり、スポーツタイプの車両への興味は少年時代から強かった。 先述の通り、22歳で初代愛車の日産・スカイライン セダン(R34型) 25GT-Xを購入。 スカイラインを所有して4年程経過したころ、昔から乗ってみたかったMT車を所有するために運転免許の限定解除を行って、マツダ・ロードスター(NB型)を購入。 夢のFR車2台体制が実現する。 月極駐車場を2台分借り、無敵の独身貴族を味わいながらFR車を乗り比べる蜜月を過ごしていた優さんだったが、28歳のときにめでたく結婚。 奥様の愛車だったスズキ・ワゴンRスティングレーと3台体制となる。 「結婚をしてからもクルマ好きは諦められないと思う...ということは先に断りを入れておきながらも、車高の低い車を2台・軽自動車1台を所有するのは持て余し始めていました」 幸いなことに、奥様はクルマ趣味に理解のある方で「気が済むまで所有していれば良い」との言葉をかけてくれていたそうだが、将来的に生まれる第一子のためにも2台の乗用車を1台にまとめ、ワゴンRを別のクルマに入れ替える”所有車一斉入れ替え”を検討し始めた。 メインカーの予算は150万円までで、”とにかく奇麗なこと”と“今、この時代に乗っておきたいクルマ”を最優先。 2000年代に発売されたモデルで、気持ちの赴くままリストアップを行っていったとか。 ■趣味車とメインカーの関係性 クルマ好きが次期愛車となる候補を探す時間は格別な期間といえるだろう。 会社の同僚を誘い、県内の中古車店をウキウキで行脚する姿を奥さまは「お年玉をもらった少年のようだった」と表現する。 「最初は4ドアで利便性の高い(?)インプレッサWRXやランサー セダンが候補に入っていました。他にもルノー・ルーテシアやオデッセイのアブソルートなど、実用と興味を兼ね備えた車種をノージャンルで探していたのですが、広すぎる選択肢のせいで大きく迷い始めてしまいました」 ▲丸型のテールがオーナー氏のお気に入り。ローウィングスポイラーはタイプRにも設定はあるが、大人っぽい雰囲気がクーペスタイルを惹きたてる そんな最中、新車ディーラーで気に入ったN-BOXカスタムをワゴンRと衝動的に入れ替えることとなる。 「新車の軽自動車はこんなに快適なのか...」と感銘を受けた優さん。 スライドドアに先進装備の数々。 「子育てをするなら、むしろファーストカーはこれでいいのでは?」とすら思えるほど。 それなら、いっそのことボディタイプに制限を設けずに選んでみようと考えた優さんの脳裏に、キラキラと煌めきを放ちはじめた1台のモデルがあった。 それがホンダ・インテグラだった。 ■「タイプS」であることは絶対にゆずれない 「知人たちがアコードやシビックに乗っていて、2000年代のホンダ車にある雰囲気にずっと惹かれていました」 中古車を探し始めた2020年のころでも、走行距離の少ない、しかもMTのインテグラを見つけるのは時間がかかった。 しかし、幸いにもホンダディーラーの中古車でワンオーナーの個体を手に入れることができた。 ▲タイプSに専用意匠の部品は多いがメーターもそのひとつ。基本デザインは似ていながらも、タコメーターは8000回転までとなり、ロゴもタイプS専用だ 美しいボディには大きな傷もなく、ヘッドランプの交換だけで新車当時を偲ばせる雰囲気を取り戻している。 「走りや操作感もさることながら、内装の仕上げにおける海外を意識した作りが妙にカッコいいと思えまして...あえてタイトなタイプRではなく後期型のタイプSにこだわりました」 華美ではないが、スッキリとした雰囲気の良い空間が漂う内装。 3ドアクーペでありながら、窮屈ではない居住空間。 なるほど、現地仕様にコンバージョンを行わなくてもアメリカンな雰囲気を感じずにはいられない。 ▲ドライバーオリエンテッドなコクピット。ステアリングはMOMOの本革巻き 隅々まで磨き上げられたエンジンルームにはK20A DOHC i-VTECが積まれる。 のびやかなエンジンフィールは、目を三角に尖らせなくても充分に気持ちの良いドライブを楽しませてくれそうだ。 「自分は子煩悩であるとも自覚してるんですが、時々ひとりになりたい時間もやっぱりあるんです。そんなとき、近所にあるワインディングを抜けて、缶コーヒーを飲み海沿いを走って帰ってくる。行って帰っても1時間程度の息抜きなんですが、最高の贅沢だと思っています。駐車場で振り返ったときにインテグラを眺めていると脳が喜んでいるのがわかりますね(笑)」 ▲エンジンは2リッター、160psを発揮するK20A。軽やかなエンジンフィールは扱いやすく、心地よいドライブのお供に最適だ 所有して3年目になるインテグラには小さな故障もほとんどなく、ノートラブルで優さんのカーライフを楽しませている。 ノーマル然とした佇まいを愛する優さんにとって、今この姿が理想的な完成形だ。 インタビューの最後に今後の愛車との付き合い方について伺ってみることにした。 「理想的な個体に出会え、数年経った今でも飽きることはありません。ただ、人生のなかであと何台のクルマを所有できるだろうか...とふいに思ったりもします。家族と営む生活と同じように、自分のクルマに対する経験値も大事にしていきたいと考えているので、何かのきっかけがあればまた愛車探しの時期がやってくるのかもしれませんね」 そんなことをいいながらも、優さんは愛車のリアビューを眺めては顔を綻ばせている。 まだまだ愛しのインテグラとの生活は続きそうだな...と筆者は予感しながらも、この先、優さんの目の前にどんなカーライフがさらに広がっていくのか。 今から楽しみでならない。 [ライター・撮影/TUNA]
■力強く駆けるボディにオレンジ色の光を宿して 取材の日は朝からあいにくの雨だった。 降りしきる雨粒の向こうから力強く駆けてくるオレンジ色のポジションライトの光を見たとき、ふと筆者の脳裏に幼少期の記憶がフラッシュバックする。 「モナ・リザのように愛されるクルマを───」 そう願い、命名されたクルマがあると昔、雑誌で読んだ。 筆者の実家にあったダイハツの軽自動車の名前がそれだった。 そのクルマは90年代半ばですら既に街中では珍しく、同車のプラモデルを駄菓子屋で見つけたとき驚きの声を上げてしまったのをよく覚えている。 天気が悪い日の夕方、両親があのオレンジ色の光とともに保育所へと迎えに来てくれたことを思い出すと、懐かしい気持ちとともにクルマへと感じていた頼もしさの原風景がそこに広がるようだ。 今回紹介する「はまっちさん」が所有するのはダイハツ・リーザ。 グレードはOXYⅡで年式は1988年式だ。 土砂降りの雨のなかを駆け抜ける小さなボディは、クルマのカッコよさ・たくましさそのものを体現している。 だが、これほどに力強く走るリーザも、実は長い間眠りについていた個体。 それどころか、はまっちさんのリーザ愛がなければ公道へと復帰することがなかったかもしれない。 いわば蘇った存在だ。 2台の部品取り車から再び公道へと「蘇り」を果たしたリーザと、愛にあふれるオーナーの物語を少しだけ覗かせてもらおう。 ■「雑誌広告に惚れぼれ」Uターンして即契約!愛しの初代リーザ ダイハツ・リーザは1986年にデビュー。 まだボンネットバンタイプの軽自動車が主流だった時代、スタイリッシュな3ドアクーペスタイルとして発売された。 いつの時代も軽自動車には個性が輝くモデルが多く存在する。 リーザも軽のスペシャリティカーらしく、軽自動車初のフルトリム化や、オープンモデルの「スパイダー」を追加し、名実ともに実用車としてだけではないムードを漂わせる存在だった。 もちろん現代の視点からもそれは衰えることなく、唯一無二のスタイリングは今も輝いて見える。 はまっちさんがこのリーザを購入したのは2019年の8月。 現在は所有してから3年目だ。 はまっちさんはかつてリーザを所有していたことがある。 それは1989年に購入した、全国400台限定車のOXY。 色はガンメタリックだった。 「元々、別の軽自動車に乗っていたんです。そのクルマはオートマチックでとても遅く、少し物足りなかったんです。しかし、あるとき、雑誌の背表紙に載っていたリーザの広告を見つけて”こんなクルマがあるんだ!”と一目ぼれしてしまいました」 それから1年ほどはオートマの軽を所有し続けたはまっちさん。 ある日、幹線道路沿いのモータースの横を通りかかり、店先に並ぶリーザの姿を目にしたという。 その存在感にいてもたってもいられず、来た道をUターンしてすぐさま店頭で契約の話へと弾んでしまうほどの強烈な出会いだったそうだ。 「購入してからは後付けでエアコンやフォグランプ、ブローオフバルブなども取り付けました。スキーキャリアを取り付けて雪山へ行ったりなど、8年ほど楽しみました」 クルマにまつわる趣味を楽しんでいたはまっちさんだったが、子育てなどを期にやがて変化が訪れていった。 ▲はまっちさんが目を奪われたのはこのスタイリング。特にリアスポイラーはお気に入りの決め手で、過去乗っていたリーザにも装着されていたため、見つけたときには運命を感じたそうだ。 ■別れと出会い、もう一度リーザに乗りたい!を叶えるために 家族が増えて、子育てが中心の生活へとシフトしていったはまっちさん。 それまで8年連れ添ったリーザだったが、より広く、より利便性の高いマツダ・デミオ(DW系)へと車両を入れ替えた。 だが...。 「リーザを手離すときは泣く泣くでした。本意ではなかったものの、生活が忙しくなるなかでクルマへの熱も我慢し続けていました。やがて子どもが手離れして、生活にも余裕が出てきた数年前、ふと“またMTに乗りたい...!“という気持ちが湧き上がって来たんです」 当時、すでにデミオからアクアに乗り換えていたはまっちさん。 「軽自動車ならもう一台維持することも現実的なのでは?」という考えと「どうしてもリーザをもう一度所有したい!」という気持ちが高まっていき、リーザ探しへと奔走することになった。 「一度、インターネットオークションにとても奇麗なリーザが出品されていて、気持ちはさらに昂ったんです。しかし、その個体はタッチの差で落札することができませんでした。長らく、良い個体との出会いが果たせず、ついにはリーザのオーナーズクラブに加入するようになっていました」 リーザが手に入れられないことを理由に、オーナーズクラブへ加入するほどの熱の入り込み方には恐れ入る。 しかし、そんなはまっちさんの行動力にリーザオーナーの方々も応えてくれ、リーザ探しに協力してもらえることになった。 ▲購入したグレードはOXYⅡ、元々のエンジンはキャブのターボ。元色はダークグレーだったものを、かつてのオーナーが赤く塗りなおしたものだという まず始めに紹介してもらったのはシルバーのTR-ZZ TFI。 1989年デビューのエアロつきのスポーティーなモデルだ。 しかしエンジンは無事なものの、足回りとフロント部分が事故で破損状態。 とてもそのまま走行できる状態ではなかったが、まず実車を見に行くことになったという。 ところが、置き場へ行くと隣に赤のOXYⅡが置かれていた。 既に多くの部品が取られてエンジンの調子が悪いドナー車だったが、ボディの状態は良好。 なんとその場で2台購入し、一台のリーザとして蘇らせる計画が始まったのだ。 ■とうとう見つけたリーザ。しかし立ちはだかる壁は低くない バブルの時代を経て販売され、追加仕様が増えていったリーザ。 時代に合わせて進化を遂げた存在だったが、それゆえに専用設計の部品が多く、レストアを行うには壁が立ちはだかった。 「シルバーのTR-ZZはEFI、OXYⅡはキャブ。エンジンは同じなので何とかなると楽観的でしたが、実際はインタークーラーの位置などが異なり、かなり加工が必要でした。ただ、整備工場の方々やパートナーの知恵と工夫でなんとか形にすることができました」 一言では語り尽くせないくらいの工程と時間を要したことは想像に難くない。 そして2台のリーザも再びこうして公道を走り、イベントの会場にまで並べる日が来ることを想像していなかっただろう。 はまっちさんは蘇ったリーザとともに、行動範囲も広がっていくようになる。 ▲エンジンはTR-ZZ用のEB型 直3 SOHC 550cc EFIターボ。車体はOXYⅡとニコイチして蘇った 「以前は“若者のクルマ離れ”なんて言葉を、同世代の方々が嘆いているのを耳にすることもありました。しかし、リーザに乗って実際に旧車のイベントやオフ会に出かけて行くと、自分の子どもよりも若い世代が深い知識を持って情熱的に語っているのを見ると”クルマ離れ”なんてないということを知ることができました」 ▲かつて平成元年に購入したリーザと改めて令和元年に購入したリーザ。当時のカタログを眺めながらエピソードに花が咲く。イベントでも注目されることが多くなった最近だが、はまっちさんにとってリーザはまだ完成していないという。 「オールペンもしてあげたいし、痛んでいる部品の多くは出てこないので製作することになるでしょう。でも、長年封印していた部分をアップデートしていくような気持ちで作り上げていけたらと思っています。今後もいろいろな場所に連れていきながら、人々の笑顔を増やしてくれるような車にできたら嬉しいですね!」 現在進行形で紡がれ続けるリーザとはまっちさんの物語。 オーナーの強い気持ちに応えるように、出会うべくして出会った相棒かのように見えてくる。 「蘇える記憶」が、未来へと繋がる道へと再びリーザを導いた。 これからどんな物語にであうのか、今から楽しみだ。 [ライター・撮影/TUNA]
■映画の記憶は実車を作り上げる「行動動機」へ 映画 ワイルド・スピード(英: Fast & Furious)シリーズに影響を受けてクルマへとドップリ浸かっていった人は少なくないだろう。 現在シリーズ9作品目、1作品目から既に21年を誇る大人気映画シリーズだ。 改めて劇場の席に座る観客の顔ぶれを思い出せば、幅広い年齢層からも支持されているのがとてもよく分かる。 特にワイルド・スピードのシリーズ前半では、日本車のスポーツコンパクト系のチューニングカーとストリートシーンがドラマチックかつ大胆に描かれている。 筆者もかつてDVDプレーヤーを何度も一時停止して、登場する車種のディテールを観察してはインターネット上にある情報と照らし合わせていた記憶が甦る。 今回紹介するシビックのオーナー、「ねおっちさん」もワイルド・スピードシリーズに影響を大きく受けた一人だ。 クルマをぱっと見ただけでも当時のシーンを思わせる雰囲気がそこら中に散りばめられているのが分かる。 カスタムを愛車に取り込むだけではなく、実際に海外へと足を運び続けそこで見た景色を愛車に落とし込む姿勢に惹かれ今回のインタビューと相成った。 まずはオーナーさんの生態から紐解いていくこととしよう。 ■お受験姿勢への反抗!?好きこそモノの上手なれ! ▲国内向けの右ハンドル車をベースに、カナダ仕様へとオーナーの手によって作り上げられていく7代目シビック。モデルとなるのは2004年式のSiだ ねおっちさんは1995年生まれの27歳。 免許取得後、トヨタの初代MR2を皮切りに、現在は英国仕様にモディファイされたスズキ・アルトと、カナダ仕様にモディファイされたホンダ・シビックの2台の車両を所有する生粋のカーガイだ。 愛車のそれぞれがカスタムを施され、オーナーの趣向を色濃く反映しているが、そのどれもが少しマニアックな視点から成り立っているのが興味深い。 「未就学児のころから英語受験をさせられたりする家庭で育ちました。当時は勉強する事自体が嫌で英語も子供のころから大嫌いでした。そんな自分がある日、シリーズ1作品目である、映画”ワイルド・スピード”を観る機会がありました。元々自分はクルマが好きだったのですが、そこに映るクルマ。そして背景にあるストリートシーンや生活の雰囲気にまで興味が沸きビデオテープは擦り切れるほど繰り返して視聴し、現在まで影響を受け続けています」 子供時代に映画を通しカーシーンへと鮮烈な経験を得たというねおっちさん。 小学校2年生の頃にはシリーズ2作品目となるワイルド・スピード2が封切りになり、劇場では飽きたらず英語版のDVDを手に入れたそう。 それをまた何度となく見ているうちに「英語を改めて勉強しようという」という気持ちと「クルマへの興味」が加速することになった。 そんなねおっちさんに転機が訪れる。 大学2年生の冬に訪れたホームステイ・プログラムの募集だった。 「訪問先は北米、ニュージーランド、そしてカナダのバンクーバーでした。本当はワイルド・スピードの本拠地である北米へと足を運びたかったのですが、夏期しか募集していないということで、気乗りしないままカナダへと行くこととなりました」 しぶしぶカナダ行きを決めたねおっちさんだったが、その渡航は後の自動車人生を大きく変えていくこととなる。 ■カナダは日本車のパラダイス?街ですれ違うクルマに仰天 ▲バンパー類などの大物からエンブレムまでカナダ仕向けで統一。ステッカー類などのディテールまで統一感をもって仕上げられている。マフラーエンドはVibrantでジェントルな雰囲気を印象付ける 交換留学先のカナダではバスで移動していたねおっちさん。 最初は興味が薄かったカナダでも実際に日々を過ごすなかで、クルマ事情が徐々に分かるようになってくる。 「まず、バスの車窓から流れていく対向車をみて驚きました。仕向け地が日本にしかないはずのクルマが数多く走っている事もそうだったのですが、日産バネットやプロボックスなどいわゆる趣味車じゃないタイプの日本製中古車がかなりの台数輸入されている事を知りました。もちろん、そのなかにはR32のスカイラインや日産・エスカルゴなど趣味性の高いクルマも混じっており、実用車として輸入される個体と趣味性の高い車種が混在していることによってカナダでもさまざまな趣向と需要があることを理解しました」 それからというものの、ねおっちさんはカナダのモータリゼーション自体にどんどんのめり込んでいくことになる。 「それからは何度となくカナダへ足を運び、クルマを通じた現地の知り合いも増えました。実際に街中を眺めているとクルマの姿から生活感が感じられ、その国ならではの雰囲気や個性に強く惹かれるものでした。特に”普通に”走っている日本車の姿はとてもかっこよく、そのころから庶民的なクルマをカスタムしてみたいという気持ちが高まっていきました」 ■部品は現地調達!数多の渡航で高まる完成度 ▲トランクには渡航時に手に入れたグッズが詰め込まれている。毎回カナダから部品類をボストンバックに詰めて持ち帰り、オーナー自身の手によって運ばれた部品でシビックの完成度は高まっていく。目には見えない苦労とエピソードが凝縮されたトランクだ 日本に帰国し、あのカナダのシーンを再現したいという気持ちが高まるねおっちさん。 カナダの景色を思い浮かべると、街中で数多く見かけたシビックのセダンが思い返されることとなる。 「元々シビックに興味は薄かったのですが、情景のなかにさまざまな仕様が街を行き交う姿が思い返されることと、日本で交友ができたショップの協力もあり、希望通りの個体が手に入ることとなり購入を決意しました」 手に入れたのはサンルーフつきのMT車。 年式はいわゆる”後期の前期”で、2004年に登録された個体。 手に入れたときはノーマルの個体だったというが、数年をかけ現在進行形でカスタムされている。 車体を眺めるほどにディテールの完成度は高く、右ハンドルベースで現地仕様を製作するには並々ならぬ努力が必要だったはずだ。 「実際に何度もカナダへと渡航して解体ヤードへ赴き自分で部品を取り外しています。シビック自体は人気車両のため沢山の出物があるのですが、ネットに出ている情報を頼りに実際に足を運んでみても既に必要な部品が取り外されてしまっていたり、雨季を経た車両は車内にダメージがあったりして空振りのときもかなり多かったりもします。30台中2台からしか部品がとれなかったときもありました」 「小物類は現地で知り合った知人らの協力も得て仕上げています。例えば、カナダ警察の車上荒らし防止用のチラシやティムホートンのシビックが描かれたカップ、ピザの空き箱まで実際に今でもカナダを走っているような雰囲気に仕上げています。イベントではなるべく車内に日本語が見えないように心がけていますね」 外観におけるまとまりとリアリティを意識して仕上げられているシビック。 カナダ向けに1年半ほど生産されていた2004年式のSiグレードをモデルとし、カナダから手荷物として持って帰ってきたフロントグリルやテールランプやエンブレム類。前期型1.7RSのサイドステップ。 ホイールは2002年モデルのRHエヴォリューションを履き、当時のスポーツコンパクトシーンを思わせるものだ。 マフラーや吸排気系にも手が入り、ジェントルながらも心地良いサウンドを響かせてくれた。 筆者的には既に高い完成度を誇るように思えるが、オーナー目線ではまだまだ手を入れたい部分はあるそう。 「一度ハマると深く掘り下げるタイプなので全然飽きませんね。とくに自分で現地から買ってきた部品やアイテムには愛着が沸き、それぞれのエピソードは忘れられないものです。これからもっとシビックを楽しみたいですね!」 ▲こちらの“ミニシビック”はオーナーによってアルテッツァのボディをベースに製作された唯一無二のボディだ。オーナーのライフワークである自動車にまつわるホビー趣味が存分に発揮された逸品だ クルマ文化と海外で眺めた視点。 それをミクスチャーして愛車に落とし込む。 半生で影響を受けたものを一台で表現することはもはや作品と言っても過言ではないのではないだろうか。 かつてカナダの風を切っていた数々の部品たち、そしてねおっちさんによって仕上げられたシビックはいつかのバンクーバーを凝縮した傑作だ。 さらに進化していく姿が今から楽しみだ。 [ライター・撮影/TUNA]
■クルマとサブカルチャーを楽しむ人 2010年代の前半頃、とあるイラスト投稿のSNSでマニアックな国産車のイラストやアートを連日アップロードする男子高校生に出会った。 画面いっぱいに描かれたセリカ・カムリや初代ミラージュが印象的だったのを今でもよく覚えている。 自らの大好きなクルマを力いっぱいにインターネットを通して表現する姿勢は当時の自分にはとても素敵に感じられ、また少し羨ましくもあった。 それから数年が経過して筆者も社会人になった。 SNSを通じ勇気を出してクルマのオフ会に参加させていただく機会を得る。 当時そのコミュニティは、ネオクラシックな乗用車と20代前半のオーナーが多く集まるイベントであった。 主催者もやはり若き青年で、その人こそ数年前にSNSで出会った「自動車美術研究室」さんだった。 クルマが大好きな高校生は大人になり、若き自動車コミュニティの中心人物の一人になっていた。 ▲グレードは最上級グレードからひとつ下の1.8EXL-S。現行の北米アコード(CV3型)のグレード”EX-L”にまで引き継がれる老舗ネームだ 自動車美術研究室さんは現在27歳。 名前が示す通り、自動車にまつわるさまざまなカルチャーに造詣が深い人物だ。 とりわけカタログやミニカー、ノベルティに書籍といった分野において目がなく、自らの家にはコレクションが所狭しと並べられているという。 好きが高じて始めたコレクションはただ集めるだけでなく、同好の士を集め”カーサブカルフェス”なるイベントを催し、毎回大勢のコレクターが集う会となっている。 また、自動車美術研究室さんが主催するミーティング、通称”ジビケンミーティング”は既に初開催から7年、多いときで200台以上の参加車両が集うイベントとなった。 そんな彼のクルマ生活におけるターニングポイントとなったという、1986年式のホンダ・アコードEXL-Sについて今回は触れていきたい。 ■「最初は3万円のトゥデイを買うつもりで...」愛車との出会いのきっかけ 「18歳で免許を取得してからはずっと欲しいクルマを探しながら2年の月日が経っていました。当初、ジェミニかスプリンターシエロの中古車を購入しようと考えていたのですが、知人がピアッツァを購入したこともあり、リトラクタブルヘッドライトのクルマへの憧れが凄く強まっていました。ただ、当時学生だったため予算がなく、先輩から3万円のトゥデイを購入するつもりでした」 口から飛び出してくる車種群に昭和63年前後の雰囲気が漂っているので注釈を入れておくが、平成28年頃のエピソードである。 当時、先輩から譲ってもらう予定だったトゥデイは故障中で修理が必要な状態だったそう。 そこでホンダの旧車に強い販売店を探し、インターネットで連絡をとるとそこに在庫していたのがこのアコードだったという。 一旦気になると大学の講義も手につかないくらい気になってしまい、学友のクルマに同乗して販売店へと見に行くこととなった。 「実際に車両を目の当たりにしたときに、デザインが超かっこいい!と思いました。当時はアコードのことはほとんど知らず、ただリトラクタブルヘッドライトがついているセダン程度の認識しかありませんでした。ただ、運転席に乗り込んだ瞬間”買うモード”に一気になってしまうくらい直感的にいいなと思える存在だったんです」 ■ほぼ知識なし。直感が長い付き合いに とんとん拍子でアコードに引き寄せられていった自動車美術研究室さん。 その個体にどこか運命的な感覚を感じ、購入を決めたという。 「実際に購入して手元に届けられた際、お店の人に”このクルマ、キャブだから気をつけてね”といわれ初めてキャブレターという機構を知るくらいに当時は知識がありませんでした」 ▲リトラクタブルヘッドライトを開くと一変する表情。80sらしいデザインが逆に新鮮に感じられる。小糸製のハロゲンランプが収まる 購入したときは9万キロ前後、現在は124000kmと複数台の所有車を使い分けながら距離を刻んでいる。 購入してから8年間でアコードとは紆余曲折あり、1年間ほど主治医に預けたままで乗れなかった時期もあったとか。 「燃料ポンプ、ラジエター、サーモスタット、オルタネーター、エアコン。マフラーの修理はワンオフで製作してもらいました。ただ、これらの交換はアコードには定番で保守と消耗部品の交換といえるのではないかとも考えています」 そう笑顔で話す自動車美術研究室さんは、すっかり逞しくエンスージアストの道を歩んでいると感じる。 過去、エンジントラブルを疑った際に部品取り用の同型アコードを購入。 部品取り車はナンバープレートをつけるつもりはなかったが、置いておくほど朽ちていきそうなのが見ていられなくなり、エアコンが効かないながらも動態保存しているとか。 ▲デュアルキャブのB18a DOHCエンジンを搭載。当時、最上級グレードのSi以外はインジェクションではなくキャブ仕様である ■「時代を抜き去るもの」先進的なボディに身を包んだデザイン 自動車美術研究室さんがもっとも気に入っているところは開閉式のリトラクタブルヘッドライトの部分だ。 ヨーロッパおよびクリオ店専売のアコードCAは固定型のヘッドライトになるが、そちらにはあまり興味がないそう。 ミドルクラスのセダンとして上級車の装いを持たせつつ、先進的、かつトレンディな姿勢をデザインにまで注ぐところにホンダの精神を感じる。 妥協なく突き詰めた結果、国内外で販売記録的にもスマッシュヒットを生み出し、現在でも米国のモータリゼーション史に残るほどの存在となっている。 当時キャッチコピーだった”時代を抜きさるもの”は、単なる意気込みだけではないように感じられる。 外観を改めて眺めてみる。 低いノーズ、大きなキャビン、トランクのハイデッキ感。 人間を優先した車両のパッケージングを実現しながらも、デザインを巧みに成立させている。 CA型のアコードは「4ドアのプレリュード」を想起させるといわれるが、実際に並べてみるとその構成は大きく異なる。 しっかりとセダンに見えるようにしつつ、2ドアクーペのようなスポーティーさを融合させる。 スタイリングと設計が高次元に組み合った結果といえよう。 クルマの内外装に大きなモデイファイは加えないものの、3ヶ月に一回くらいの頻度で気分転換にホイールキャップを履き替えているそうだ。 足回りの変更は外観に大きな変化をもたらすので効果的な着替えであると感じる。 この時代のホンダ車のホイールキャップはナットと一緒に元締めされている車種も多い。 大ことなコレクションが飛んでいかない部分にも寄与するものだ。 ▲純正の外観を保ちつつ気分によってホイールキャップを履き替える。今回はインテグラの物が装着される 次に内装を見てみよう。 ▲低くコンパクトにまとめられながらもダッシュボード上部にはトレーなど機能的なレイアウト。ステアリングにはクルーズコントロールも装着される グラスエリアを大きくとったデザインは当時のホンダの思想を大きく反映する。 シートにはオリジナルのハーフカバーを装着する。 当時を偲ばせるコレクション的に装着しているのではなく、夏場はモケットのシートが熱を持つためあくまで実用品として使っているとのことだった。 当時の部品は小変更点が多く、見た目は似ていても生産元のサプライヤーが異なるなどもあるという。 例えば、アコードのメーターも前期と後期に見た目の差異は少ないが、NS製とデンソー製がある。 知人が所有しているアコードのメーターが故障し、代替品を購入したところ製造元が異なりメーターは動作しないということに初めて気が付いた。 手痛い出費になったと推察するが、そんな、一つ一つの経験がオーナーの経験値を高めていることであろう。 ■アコードは人生観を変えるターニングポイントへと導いてくれた存在 アコードを買う前と後では人生観がまるっきり変わったという。 クルマを買ったことによりオフ会など対外的にイベントへ参加する機会が増え、自然と今まで知り合うことのなかった知人が増えていったそう。 そのうちに自らイベントを企画するようになり、周囲の協力を得ながら規模は大きくなっていった。 「それまでもイベントに行って参加するなどはしていましたが、人を集めて矢面に立とうという気持ちはありませんでした。ただ、クルマを通して楽しい空間を作りたいという気持ちが強くなり、仲間と一緒にイベントを開催するに至りました。クルマのイベントはある意味自分が目立たなくて良いのが好きなんです。クルマを中心にした話ができ、SNSでその車種をきっかけに繋がりが増えていく、そんな点に魅力を感じイベントを続けていますね」 最後に今後、このクルマとどう付き合いたいかを伺ってみた。 「この先、クルマを取り巻く世界は大きく変わっていくと思います。たとえ電動車しか走れなくなった世界になったとしても乗り続けたいと思っています。アコードをEV化できるように準備していかなくちゃいけませんね!」 笑って話す自動車美術研究室さんの言葉は冗談めかしながらも、本気の決心を感じさせるものだった。 クルマを取り巻く文化、そしてそれらを楽しむ仲間たちと共に未来へと走り続けてほしい。 そう感じるインタビューとなった。 [ライター・撮影/TUNA]
■スタイリングと居住性を高めた4ドアハードトップ 平成初期の映像をたまたまテレビで見かける機会があった。 幹線道路には多くの白いセダンが行き交い、当時の自動車の流行を感じさせる映像だった。 2022年現在、各メーカーは自動車のラインナップを整理して統合する流れが顕著だ。 しかし90年代初頭といえば、ユーザーの趣向へ幅広い対応をしながらセダン系車種のバリエーションがどんどん増えていった時期でもある。 それを象徴するように、当時乗用車を自社開発を行っている日本のすべてのメーカーが3BOX型の車両をラインナップに持っている。 軽トラックもミニバンもOEMで共通化している現代では考えにくい状況であるとはいえないだろうか。 ▲この個体は最上級グレードの2.3Si-Z。メーカーオプションのサンルーフを装着し、まるで当時のカタログに掲載されていたかのような佇まいだ 1992年3月に登場したホンダ・アスコットイノーバは4ドアハードトップ。 6ライトウインドウに、最近でいうところの4ドアクーペスタイルのレイアウトは、現代の目線から眺めてもスポーティでグラマラスささえ感じるものだ。 当時、ホンダの3BOXラインナップは、末っ子からシビックフェリオ、インテグラ、コンチェルト、ミドルクラスセダンのアコードと姉妹車のアスコット、アコードインスパイアと姉妹車のビガー、そしてフラッグシップのレジェンドなど多種多様であり、それぞれの車種に強いキャラクターを与えている。 開発時期にバブル時代を経ているとはいえ、3BOXへの熱量は相当なものであったといえよう。 ▲サイドからの眺めは、クーペや5ドアハッチバックのよう。流麗に構成されたボディは最近の4ドアクーペを先取りしたかのようだ ■英国に姉妹を持つスポーティなキャラクター エンジンは2.3リッターDOHCのH23A型、輸出仕様のプレリュードと同型のエンジンだ。 H23A自体はアコードワゴンSiR等にも搭載されるエンジンだが、VTECなしの仕様としては日本国内でアスコットイノーバにのみ搭載されるものだ。 1993年からは欧州向けの5代目ホンダアコードとして、イギリスのスウィンドン工場で生産が開始されている。 当時、業務提携の関係にあった英国・ローバーの600シリーズと開発をともにした姉妹車であり、ダッシュボードの形状もは近似のものを採用している。 車体自体のデザインに日本車離れした印象を持つのは、こういったバックボーンだったことからも頷ける。 続いてインテリアを見てみよう。 とにかく低く、グラッシーに作ろうとしていた80年代のホンダ車の思想を受け継ぎながらも、随所に工夫を忍ばせながら進化している。 例えば、ダッシュボードからドアトリムに連なる雰囲気やシートの造形はラウンディッシュに構成され、豊かな雰囲気を醸し出している。 既に高級感を訴求する経験値の高さを感じ、シートやドアライニングなど、人が触れるところの多くにソフトな質感を持たせているところも上級セダンの風格を強めている。 ▲内装には複数のマテリアルを合わせたインパネ周りや大型の水平指針メーターが目を惹く アスコットイノーバが登場した1992年から生産を終了する1996年頃までのトレンドは、セダンやスポーティな性格のクルマからRV車へと趣向が移り変わり行く時代でもあった。 そのような過渡期ともいる時代においても、特徴的なフロントフェイス、デザインおよび車両のキャラクターは、当時を振り返ってもひとつの個性としてしっかりと輝いていたように思える。 オーナーのさいとうさんは1997年生まれの25歳。 つまり、生まれたときには既にアスコットイノーバは生産終了している世代でもある。 では、なぜこのクルマに惹かれるのだろうか? ■「自分が生まれたとき、そこにアスコットがあったから」25歳で4台のアスコットを手に入れたオーナー像 「自分が物心ついたとき、既に実家にはホンダのアスコット(CB1)がありました。自分がクルマ好きになったのも、そのアスコットがきっかけで今に至ります。免許を取得し、実家のアスコットを受け継いだのですが、そのドナーのために白いアスコットを購入。さらに、以前から欲しいと思い続けてきたこのイノーバを購入しました。最近ではもう一台ドナーとしてアスコットを購入しています」 柔らかな口ぶりで語るさいとうさんだが、愛車遍歴のすべてがアスコットシリーズという一途さと行動力に本気度合いが窺い知れる。 「1歳の頃にはミニカーで遊んでいたそうですが、自分が覚えている限りでは3歳くらいで“うちのアスコットはなんてカッコいいんだろう...”と思うようになっていました。そんな気持ちが20年以上どんどん大きくなって現在に至っています」 ▲当時はまだ採用例が少なかったキーレスエントリーはドアノブにリモコンの受光部がある オーナー自身の愛車遍歴としては3台目となり、すべてがホンダのアスコットシリーズだ。 取材時は所有してからは約半年。 購入経路は、同じくCB型のアスコットに乗っているオーナーさんが手離すという話を耳にし、個人売買という形で所有することになった。 複数オーナーが所有してきた個体だが、現在の距離は約65000kmだという。 生産から30年が経過したクルマとしては少ない部類といえよう。 複数台を所有するさいとうさんだが、イベントの他にも日常での出番も多く、使いやすい一台になっているという。 ▲純正オプションの空気清浄機。エクステリアへと魅せるデザインがカッコいい。今探すと見つけるのが大変な逸品といえよう 「街中に出ると、イノーバは普通のアスコットに比べて不思議と視線を集めるクルマです。最近ではあまり見かけない車体の色だったり、ヘッドライトと一体型のフォグランプの光り方、字光式のナンバープレートなど合わせ技で目を惹いているのかもしれませんね」 ▲フォグとハイ/ロー、ウインカーが一体のヘッドランプ。同社のスペシャリティクーペ、プレリュードと似たグリルのデザインもイノーバがスポーティな性格であることを印象付ける 古くて珍しい、という理由だけではなく、車両自体の個性やスタイリングによって注目を浴びる。 登場から30年が経過しても強いキャラクターが息づいている事を話を伺って改めて感じた。 最後に今後、イノーバとどう付き合っていきたいかを伺ってみた。 「稀に天然個体のアスコットを目撃した例を知人を通じてごく稀に聞くのですが、自分はそういった個体を街中で見かけたことは一度もないんです。既に現存する個体もかなり少なくなっているはずなので、エンジンが動く限りは純正の姿を保ちつつ後世に残していくことができればいいな、と思っています」 好きなクルマを追い求め、それを所有できる。 なんて素晴らしいことだろう。 それがどうしても欲しかった一台となればまた格別のことだ。 周りに同一の車種がいなくても、分かり合える仲間がいる。 こうして将来へとクルマたちが一台でも多く残っていく姿を窺い知れるのは、ひとりの旧車ファンとしてもとても嬉しい気持ちになるインタビューとなった。 これからもアスコット、そして多くのクルマに触れ、さいとうさんの世界を深く追求していってほしい。 [ライター・撮影/TUNA]
■バブルの時代を体現するタイムマシーン 「平成レトロ」というキーワードが世の中に現れて久しい。 平成の期間は30年と113日もあるのだから、その間でさまざまなジェネレーションが存在することは容易に理解できる。 しかし、こと”レトロ”となると、昭和の境目にあったバブル期に思いを馳せずにはいられない。 今回取材をさせていただいたオーナーのrainforceさんもそんな一人。 1991年生まれの31歳で、バブル時代の生活は未経験だ。 対して所有するインテグラは1990年に生産された個体で、その時代を生きた生き証人のようなクルマだ。 オーナーよりも一歳年上。 平成から令和へと、時代を越える姿を覗いてみよう。 ■かつての家車と姿を重ねたどり着いたインテグラ ▲大きなガラスが特徴的なリアビュー。後づけのダイバーシティアンテナとハイマウントストップランプがマッチしている。 幼少期から自他ともに認める車好き少年だったrainforceさん。 そんな彼のクルマ好きを形成したのは、家車として両親が所有していたDA型インテグラだ。 フリントブラックメタリックの4ドアハードトップで、子供心にも「かっこいい!いつか乗ってみたい!」という気持ちが芽生えたそうだ。 rainforceさんが10歳の頃、その個体はミッションのトラブルによって買い換えることになってしまう。 それでもインテグラへの想いは心の片隅に置いたままで、少年はクルマ好きの青年へと成長していく。 免許を取得し、初めて所有した愛車は学生時代にヤフオクで購入した10万円の三菱・パジェロミニ。 自らの意思でどこへでも行ける喜びは自動車への興味へとさらにのめり込むきっかけとなった。 就職後はプジョー・106 S16を購入。 そのパワーとハンドリングは、ワインディングをキビキビと駆け抜けるのにうってつけの1台だ。 現在でも所有するほどのお気に入りの一台となる。 ただ、そんな相棒をよそに心の片隅で燻っていたインテグラへの想いが大きくなっていくのを無視することはできなかった。 「106を所有しながらも、もう一台増車したいという気持ちを常に持ち続けていました。 90年代のクルマはモデルを問わず市場にある個体も数が減り、値段も高騰し始めているので買うならラストチャンスが迫ってきていると感じていました」 ■クルマ好き青年が心に抱き続けた珠玉の一台 そんな念願が叶い、手に入れたインテグラは1990年車。 インテグラシリーズとしては2代目、前期型のXSiでホンダ初のVTECエンジン搭載車だ。 インテグラは先述の通り、4ドアのハードトップと3ドアのクーペが存在し、サルーン的なフォーマルさやスペシャリティカーとしての性格も強い。 今となってはコンパクトなパッケージングだが、その実レッドゾーンは8000回転からのB16Aを搭載し、リッターあたり100psを出力するホットな心臓を持つ。 「DA型インテグラはリリースから既に33年が経過していますが、走りにおけるプリミティブな部分においてはこの時代で既に完成形に近いのでないかと感じます」 rainforceさんが語る通り、装備やパッケージングに不足は感じられない。 それどころか控えめなのに洒脱なインテリアの雰囲気づくりや、低いノーズにグラッシーなキャビンの構成は近年のクルマとは異なる体験をもたらしてくれるだろう。 それまで106を所有するカーライフのなかでは比較的スポーティな運転を楽しんでいたというが、インテグラと付き合ううえでカーライフに少し変化があったという。 「今まで106は良き相棒としていい意味でラフに乗っていた感じが強かったのですが、インテグラにしてからはクルマの状態についてよく気にかけるようになりました。洗車時にもタイヤの空気圧やエンジンの調子を確認するようになり、細かいところに気を配るようになったと自分でも感じています」 ■時代感をディテールに宿しながら走るムードのあるドライブ 購入時は約85000kmの上物の個体だ。 購入から1年間で約11000kmを走行したという現在も車体は隅々まで磨かれ、その美しさは新車から間もない頃の姿を想像するのは難しくない。 車体自体は基本的にオリジナルを保ちつつもインテグラが生まれた時代を反映し、ダイバーシティアンテナやハイマウントストップランプの装着を行いモディファイされている。 タイヤは復刻版のアドバンタイプDとBBSのホイールで引き締まった印象だ。 内装はオーディオ類がこだわりポイントだ。 アルパインのデッキとイコライザーとアンプ、スピーカーは同年代のもので揃え、CDプレーヤーのディスクマンと車載のテレビ、芳香剤のポピーやカップホルダーなどのアクセサリー系が置かれトータルコーディネートされている。 「車内の雰囲気づくりとして、目に見える部分に現代的なものをなるべく置かないように心がけています。インテグラを所有し始めてからは夜の都心や首都高をゆったりと走らせるのがあっていると感じ、そんなドライブに出かける機会も増えるようになりました」 ▲内装にも時代を感じさせるアイテムを配置。色味なども揃えられ、雰囲気を全体的に高めている。 いざとなればVTECが目を覚まし、その本性を覗かせるのもインテグラも、情緒的な雰囲気を纏い大人な走りができるのもまた魅力といえるだろう。 最後にrainforceさんに今後の愛車への付き合い方について伺ってみた。 「ホンダ初のVTEC搭載車ということで、文化財…とまでは行かなくてもできるだけ長く楽しめるようにしたいと思います。とはいえ、しまい込むことはなく適度に楽しみながら動態保存していきたいと感じています」 幼少期の憧れから、時代感を閉じ込めたタイムマシーンへ。時代を超えていくインテグラがこの先もエネルギッシュに走っていく姿を期待してしまうものだ。 [ライター・撮影/TUNA]