「新品 希少 ローバー ミニ MINI MONTE CARLO RALLYE モンテカルロ ラリー プレート ルーフキャリア」のご紹介です。
日本人が育てたと言っても過言ではないミニの伝説のレースについて、少し紹介させていただきます。
1966年、モンテカルロ三連覇を狙うミニの前に立ちはだかったのは、フランスのオーガナイザーによる組織的な妨害工作でした。
まずは規定が変更され、最も改造範囲が狭い「グループ1」車両のみが、総合優勝の対象とされました。
おまけに、それまでは12ヶ月間に1000台の生産数量が要求されていたグループ1のレギュレーションが、 突如として5000台に引き上げられてしまいます。
通常のミニでしたら、この数字はまったく問題ありませんが、クーパーSにとっては、かなりきつい数字です。
しかし、BMCのマネージャーであったスチュアート・ターナーは、工場に大車輪の増産を指図し、期限ギリギリに何とかホモロゲーションをクリアーすることができました。
こうして幕を上げたこの年のモンテカルロですが、4台の1275Sで参戦したミニ・ワークスが、マネキン組、アルトーネン組、ホプカーク組の順番で、見事1、2、3位を独占したのです。
しかしながら、ゴール後の正式発表では、なんとミニに続くフォード・コーティナまで含めて、全てのイギリス系チームは失格となり、優勝は『シトローエン DS21』にさらわれてしまいます。
しかもその理由は、英国車が使用していたヨウ素ヘッドランプが、生産車の減光機能を有していないという、言いがかりに近いものでした。
これには英国全土が怒りに沸き立ちましたが、もちろんこの結果を覆すことはできませんでした。
これはラリー史上に残る汚いレースとして、英国では今日まで語り継がれるわけですが、BMCにとっては逆に大きな宣伝となり、クーパーSの売り上げもこの年、爆発的に伸びました。
そして1967年は、リベンジの年となります。
前年のインチキへの抗議を込めて、この年、ミニは全てプライベート・エントリーとなりますが、内実はもちろん、BMCのコンペティション・マネージャーであるスチュアート・ターナーを総帥とする、完全なワークス体制です。
ラウノ・アルトーネン、パディ・ホプカーク、ティモ・マネキンら歴戦の勇士 5台のクーパー1275Sが、 再び変更されたレギュレーションにより、今回はグループ2の仕様としてエントリーしました。
しかし、この年は雪が少なく、ミニには序盤から苦戦の連続となります。
F1やスポーツカー・レースなどオールラウンド・レーサーとして知られるヴィック・エルフォードの『ポルシェ 911S』が終始リードを奪い、ミニは後塵を拝するばかりでしたが、遂に最終セクションのチュリニ峠に来るに至って、待ち望んでいた雪が降り始めます。 2位につけていた、この赤いボディにホワイト・ルーフ、黄色いゼッケン177番のアルトーネン組は、ポルシェを見る見る追い上げ、遂には劇的な逆転に成功します。
しかし、息つく暇も無く、次に追いすがってきたのは『ランチア・フルヴィア』のO・アンダーソン組。 激しい追撃にあいながらも、アルトーネンはわずか13秒の差でなんとか逃げ切ることに成功し、前年の雪辱を晴らしたのです。
今回ご紹介させていただいたミニのモンテカルロラリーの活躍は、歴史的にとても意味があると思います。
このミニのラリーでの活躍がなかったら、今日のコンパクトカーやBMWミニはなかったかもしれません。
また、歴史を振り返ることで、車社会の未来像が見えてくるような気がします。